海苔にプリントする技術で社会を楽しくしたスゴい人

今日のスゴい人は平らで真っ黒の海苔にプリント加工の技術を開発した大島政則氏。その人生は波乱万丈。どんな逆境にあっても前を見てあきらめることなく進み、道を拓いてきたその半生を伺いました。

 人間力 

 編集部(以下編):今日はよろしくお願いいたします。

大島様(以下 大):よろしくお願いいたします。

 

編:子供時代はどんなお子様だったんですか??

大:生まれは佐賀県鹿島市でしてね。姉と妹がおります。小さい頃はいたずら好きでして、よく先生に怒られたり立たされたりしていました。職員室で先生に怒られていてもその先生に見えないように裏でふざけたのを他の先生に見つかって殴られたりね(笑)。赤胴鈴之助に憧れて、可愛い女の子がやっていたので一緒に稽古したいという半ば不純な動機で小学校3年生から剣道を始めました。

 

編;ご家族と離れて暮らした時期があると伺いました。

大:そうなんです。父親は佐賀県で土木業や海産物の仲買などを営んでいたのですが、小学校3年生の時に父の事業が失敗しまして、両親と一番下の妹だけが東京の叔父を頼って引っ越しをしました。金銭的な理由から私と姉は佐賀の祖父母の家に預けられまして。事実上家族が離れて暮らすこととなりました。これが一番当時の私には寂しく、つらかった出来事だと言えます。母親が愛情深い人でしたので余計に寂しかったのですが、祖父母や親戚の愛情が当時の私を支えてくれました。中学校2年の時には私も両親の元へ行き一緒に暮らすことになったのですが。その時は両親や妹と会える喜びと、地元の友人と別れる寂しさとで多感な時期に大変難しい感情を経験しました。

引っ越しした川崎区の学校は当時はとても荒れていて、戸惑いましたが、私は剣道が強いという話が先に学校に伝わっていたので一目置かれていたのか、あまり僕自身には災いは無かったです(笑)。

 

編:手を出すとひどい目に合うかもしれないと皆さん思ったのでしょうね(笑)。

大:どうでしょうか。おかげで割と平穏な中学時代を過ごせました。高校時代は家庭の事情で昼間は海苔会社さんで社員として働きながら、定時制の高校に通いました。この頃父親が再度起業したのが海苔の加工業でした。一次乾燥した海苔を仕入れるのですがこの段階ではまだ皆さんがご存じのパリパリの状態ではない、柔らかいものです。佃煮ほどではないのですが、これを乾燥させたものが商品になります。私もこの会社を手伝っていました。ところが父親が保証人になっていた海苔会社さんが倒産して多額の負債を背負うことになりました。これが2度目の事業失敗です。取り立てが厳しい時には10日間くらい父が自宅に帰ってきませんでしたので、その間長男として対応もしましたね。結局自宅は競売にかかりました。

 

編;10代で相当なご経験をされたのですね。

大:それから父の事業の義理の兄と引継ぎ、兄は海苔の加工業を、私は販売を担当するようになりました。海苔の事業の中で順調に成績を伸ばしている中で、量販店などの大型店舗法の改正により、出店規制緩和で小規模の海苔店がどんどん経営が苦しくなっていきました。90年代のことです。メインの取引先が閉店や倒産などに追い込まれていきました。そんな中でも営業力がどんなにあっても、大店舗の資金力や組織力には勝てないと痛感しました。これをいつまでも続けてはいけないぞという思いが生まれました。

 

編:生き残るために何か工夫が必要だと感じられたのですね。

大:ある時、営業をしていた時に、バレンタインデーはチョコレート業界が仕掛けたのだという事実を知りました。平らな板チョコがメインだった日本のチョコレート業界に、ヨーロッパからトリュフなどの新しいチョコレート文化を紹介し、販路を拡大し、文化として根付かせたわけです。これを海苔業界にも展開できないだろうかと思いました。海苔だって平らな商品ですから、技術を使って業界としてマーケットを仕掛けられないだろうかと。これが発端でした。品質と価格においては海苔はすでに完成形しているのですが、もう一つ「海苔で楽しむ」という点においては業界としてまだ実現できていないなと思ったんです。

企業とのコラボ商品は数えきれないほど

編:なるほど!このプリント海苔のアイデアを開発するのはご自分で考えられたんですか?

大:基本的にというか、主体的には私ですが、一人パートナーがいましてね、研究開発の。彼は繊維商社で働く友人で、繊維ですとTシャツにロゴをプリント印刷したりするじゃないですか。その仕組みを教えてもらいました。文字はね、基本的に卵白成分なんです。

 

編:卵の卵白ですか!なるほどー。

大:海苔は水分が大敵なんです。水分が少しでも入るとよれよれになりますから、水で溶かせません。カルシウムを溶かす溶液を何にするか。酢なのか油なのか。海苔は天然のものですから化学調味料は使いたくない。卵白だと思いつきまして。卵白は熱で白化しますよね、目玉焼きもそうでしょう。それもヒントになりましたね。熱で白色が際立つんです。それから何百個も卵を使ってテストをしました。工場で朝から晩まで卵割って、白身だけ取り出してという作業を繰り返しましたね(笑)

 

編:大変な作業ですね。

大;心折れそうに何度もなりましたよ。卵割って、試作して、データ取って、検証。これの繰り返しです。「あきらめない気持ち」だけが私を支えていました。もう一つ壁だったのは、海苔には食品衛生法で着色が禁止されているんです。着色して鮮度をごまかしたりできないようになっているんですね。消費者の心理を欺いてはいけないという理由からです。このプリント海苔はあくまでもエンタメであって、鮮度をよく見せたり、何かを改ざんしたり誰かを欺いたりする技術ではないという説明を厚労省には何度もしました。

 

編:そうなんですか!そんなご苦労もパイオニアだからこそですね。

大:ただね、厚労省と話を重ねていくなかで商品はどんどん話題になって、TVに出るわ、郵政省にも、宮内省にもお納めしたりもしていたので、法律がもう現実に追いつかないみたいな状況だったのは事実です。そしてこのプリントという技術が海苔の品質をごまかすための加工ではないということは明らかでしたからね。

デザインは自由自在、フルオーダーが可能

編:研究開発には費用も掛かったのではないでしょうか。

大:それはもう、研究開発のために相当な借金を重ねましたよ。23年の試行錯誤の末、35歳の時にようやく特許取得にまでこぎつけました。共通の知人の紹介で出会った、なんでんかんでんの川原社」長が最初にお店での使用を決めてくださって、そこから一気にブームとなりました。当時なんでんかんでんさんは飛ぶ鳥を落とす勢いでしたし、多くの芸能人が訪れるお店でした。ラーメンをお客様が食べる時、必ず海苔を見ますから、宣伝広告としてはうってつけのアイテムでしたね。今はプリント海苔を取り扱うたくさんのメーカーが出てきておりまして、型抜きの海苔の製品や、海苔でできたお弁当に使えるバランカップなど、バラエティに富んだ製品もあります。私自身が開発当初に考えていた、海苔業界全体で海苔が提案できる「楽しさ」という私が目指したゴールが沢山の方の素晴らしいアイデアで展開されている事実を喜ばしく思っております。

 

編:自分の技術で業界が活性化することを喜べるとは素敵ですね。

大:私は人に比べて大変なことがたくさんあった人生でしたが、割と大変さを重く受け止めない性格だったのは幸いしております。基本的に天は背負えない荷物を人に与えはしないと考えていますし、何よりもそのような経験が自分の血となり肉となり、肥しとなって今日の私を支えてくれていると思っています。これは本当に父親が見せてくれた「商人としてのスピリッツ」が私の中に生きているからです。父親も波瀾万丈の人生でしたが、なんど倒産しても不屈の精神で事業を立ち上げる姿を私は見てきましたから。

 

編:今、将来を不安に思う若い人達へ何を伝えたいですか。

大;人生80年もしかしたら100年と言われている時代に、晩年に人生が素晴らしかった、幸せな人生だったという達成感を得られるような時代になってほしいし、そういう人がたくさん出るようになってほしい。人生は決して楽なことばかりではなく、むしろ辛いことの方が多いかもしれない。だけどその辛さをいかに自分のエネルギーとし、楽しさに変えられるか。昨今はちょっと転ぶと立ち上がれない人も多いです。僕はどんどん転べばいいと思いますね。名医と言われる医者でさえ、多くの失敗や試行錯誤を繰り返して今日があるわけです。自分自身がギブアップしなければそこに「負け」は存在しない。「人間力」という言葉が「学力」よりも大切だと思います。人の心をつかみ、生きていくことこそが、人生の晩年を有意義なものにしていくのだと思います。失敗を恐れるなということですね。失敗を肥やしにするくらいの気持ちで色々なことに挑戦してほしい。人間力がまさに自分の力そのもの。

編:ありがとうございました。

 

インタビュー: NORIKO 映像:株式会社グランツ

 

株式会社 大政(たいせい)/プリント海苔の製造加工・販売

公式サイト:http://taisei-print.com/index.html

 

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