異色の作風でジャンプ黄金期作家陣に名を連ねたスゴい人!DAY1

一歩一歩やっていくしかない。そう話す巻来功士さんは、ジャンプ黄金期に名を連ねた漫画家のひとり。少年誌である週刊少年ジャンプでは異色なグロテスクさやオカルティックな表現で知られています。デビューし、プロになってからも、自分がやりたい表現のための試行錯誤を繰り返し、独自の世界観でファンを引きつけてきた巻来さんに漫画家としての半生について伺いました。

気楽に気合でやりましょう!

 

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病弱だった子供時代にずっと絵を描いていた

 

──子供の頃から漫画家を目指していたそうですが、何がきっかけだったのでしょうか。

 

当時は漫画やアニメがブームで、鉄腕アトムなど、作品が湯水のように出てきていた時代でした。その中で育って、自然に漫画家になりたいと思うようになりました。

それに幼い頃、病気で寝込んでいた時期がありまして、やることがないからずっと絵を描いて過ごしていたんです。それが幼稚園の頃ですね。

 

──身体が弱いお子さんだったのでしょうか。

 

肺炎になったんですよ。当時の肺炎は今のように薬ですぐ治るわけでもないので、かかれば長い間養生しなければなりません。2ヶ月くらい、ずっと鉛筆持って絵を描いて、誰とも会わずに過ごしました。それもひとつにきっかけかもしれませんね。

 

──投稿はいつ頃からされたんでしょうか。

 

小学校6年くらいですね。応募先は『少年ジャンプ』です。当時は素人が応募できる新人賞はジャンプしかなかったんです。ヤングジャンプ賞という新人賞に応募したんですが、当時、間違えてずっと小さい原稿サイズで送っていたんですよ。当時、秋山ジョージ先生の『ざんこくベビー』(秋田書店)が好きで、『ざんこくくん』ってギャグ漫画を描いて投稿しました。すぐ落とされましたけどね。寸法も違いますし。

投稿を続けて、最初に最終候補作に選んでもらえたのが、中学3年生の時です。これもギャグ漫画でおさるさんのギャングの話です。最終候補作として名前も掲載されたのを見て、もう漫画家になるしかないと。思春期に憧れの雑誌に名前が載っちゃったんですから。

 

 

 

大学時代に感じた焦り。中退、そしてデビューへ

 

──その後は『週刊少年ジャンプ』ではなく、『少年キング』でデビューされたんですよね?

 

ジャンプへの投稿は続けていたんですが、思春期は移り気でしたので、他の雑誌にも行ったりしていました。高校の終わりくらいに1回ジャンプの担当編集の方から連絡があったんです。ネームを送ってくれという話でした。そこでネームを描いたんですが、ネームを描いてしまうと、もう本番の原稿が描きたくなるんです。そして本番の原稿を描くなら、賞に応募したくなるわけです。

編集の方から見れば「何無視してるんだよ」って思われる状態です。それでジャンプの編集部と途切れてしまって。

当時、自分自身もあまり『週刊少年ジャンプ』の掲載作が好みではなくなって、『少年サンデー』に興味を持って。小山ゆう先生の『がんばれ元気』を連載していた頃です。僕は大人っぽい漫画家が好きだったんですよね。そこで3年間くらい小学館の新人賞に投稿していました。そして『少年サンデー』の編集の方が訪ねてきてくださったんです。そこでまたネームを送る話になったのですが、やっぱり送らなくて。一方で賞に出しても通らないなあと。東京に持ち込みに行きました。

 

──九州産業大学に通われていた頃ですよね。持ち込みも考えていらっしゃったなら、東京で進学しないで地元の長崎からも離れた大学に進まれたのはなぜでしょうか。

 

単純に大学に行く気があまりなかったんですよ。高校出たらアシスタントになって、すぐ漫画家になろうと思っていたんです。それに父が猛反対して。「遊んでもいいから大学は行け!」って言うもんだから、素直に遊んでもいいんだ、と行きました。見事に遊んで留年ちゃって。2回生を2度やることになってしまいましたが。結局、3年半で中退しました。

その頃、漫画研究会の一年上の先輩がデビューしたり、刺激を受けて。『ザ・サムライ』の春日光広さんで、九州産業大学の漫画研究会を作った人です。

 

──それは刺激になりますね。

 

僕の同期には北条司さんがいます。彼は福岡の社会人の漫研があって、そちらにいましたが。ずっと後輩になると『NARUTO -ナルト-』の岸本斉史先生もいます。『あまいぞ!男吾』のMoo.念平先生も九産大出身ですね。凄い人たちが輩出されています。

 

──九州産業大学を選んだのは漫研が理由だったのですか。

 

いや、まったく。僕にとって漫画はひとりで描くものなんです。大学に行っても群れて描く気はなかった。漫画を描きながら映研に入りたかったんですよ。映画監督になろうか、漫画家になろうかと少し考えていた頃です。

 

──大学を中退して持ち込みをされたことで、『週刊少年キング』でデビューが決まったんですか?

『少年サンデー』を訪ねようと思ったんですが、当時、小学館は持ち込みできる受付曜日が決まっていたんです。僕が上京した時、ちょうどその日に当たってしまって。そこで近くにある少年画報社に持ち込みしました。そこでデビューが決まりました。

 

──持ち込みからデビューまでスピード感がありますね。

 

デビューまではあまり苦労はなかったですね。苦労がなかったから、デビュー後に苦労するんですけれども(笑)。

 

デビュー後の波乱万丈!デビュー雑誌が休刊に……

 

──持ち込みが向いていたんでしょうか。

 

そうでしょうね。賞には縁が薄かったんですが、賞よりデビューが大事です。賞を獲っても駄目だった人をたくさん見てきましたから。賞は『マンガくん』という雑誌でいただいたことがあります。今の『ヤングサンデー』の前身の雑誌です。

 

──『少年キング』でデビューされた後に、『週刊少年ジャンプ』に移られたお話を伺えますか。

 

『少年キング』が休刊になったんですよ。そこで、絶対潰れない会社はどこだろうって考えたら、浮かぶのは集英社ですよね。その頃『週刊少年ジャンプ』では大好きだった『ブラック・エンジェルズ』や『激!!極虎一家。』が連載されていました。こういう漫画が載るなら、自分が描きたい漫画が描けるんじゃないかという期待もありました。

 

──新人賞の応募からスタートされたんですか?

 

初めは持ち込みです。株式会社コアミックスの社長をされている堀江さんが、当時、編集をされていました。シティー・ハンターの立ち上げ時に担当をされた方です。堀江さんに「ラブコメ主流の時代にこういう勢いがある漫画いいね」って担当になってくださいました。『週刊少年ジャンプ』ではまず賞を獲らなければならないので、作品を1本描いて、ヤングジャンプ賞の佳作をいただきました。初めての賞というわけではないけれど、やっと大きなところで賞をいただけました。

 

──そして再デビューとなったわけですね。

 

連載をもらうのは早かったです。読み切りを描いたんですが、それがかなりの高評価で『闘将!!拉麵男』に次いで2位になったんです。そこで、当時漫画原作の新人賞、梶原賞というのがありまして、その受賞作で漫画を描いてくれないかというオファーがありました。オリジナルでやれるという気もありましたが、ここは断っちゃ駄目なんだろうなとお受けして。それで連載したのが『機械戦士ギルファー』です。10週で終わりましたが、記憶には残る漫画になったと思います。

 

 

(2DAYに続く)

 

 

 

 

(了)

 

撮影・ライター:久世薫

 

巻来 功士(まき こうじ) プロフィール:

長崎県佐世保出身。子供の頃から漫画を書き続け、中学3年の時に投稿した作品が集英社『週刊少年ジャンプ』のヤングジャンプ賞の最終候補作になる。大学に進学してからも投稿を続け、20歳の時に小学館のマンガくん月間まん研新人杯の佳作を受賞。大学3年で中退し、東京に原稿の持ち込みに来たときに、たまたま入った少年画報社で連載の話が決まり村田光介のペンネームで少年キングに『ジローハリケーン』でデビュー。後に週刊少年ジャンプ『機械戦士ギルファー』を発表し、ジャンプ黄金期を支える作家のひとりとなる。代表作は『メタルK』(集英社)『ゴッドサイダー』(集英社)等。『ゴッドサイダー』は青年誌に移った後も『ゴッドサイダーセカンド』(新潮社)『ゴッドサイダーサーガ 神魔三国志』(秋田書店)が連載されていた。

来る2021年初頭よりネットで連載開始予定の巻来功士流近未来戦争漫画【FAKE WORLD フェイクワールド‐偽世界-】を準備中。

 

公式サイト:『MindHouse』http://www.sokaido.com/makikoji/

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