日本人なら絶対知っている大ヒットドラマ・映画で時代を創ってきたスゴい脚本家!DAY1

今日、明日ご紹介するのは、80年代から40年近く、脚本家として矢継ぎ早に数々の名作映画や、高視聴率ドラマを送り出し、黄金時代をいくつも築いてきた来たスゴい人。

『うちの子にかぎって…』『パパはニュースキャスター』『君の瞳に恋してる!』『逢いたい時にあなたはいない...』『ストレートニュース』『レッツ・ゴー!永田町』と、作品群のほんの一部を挙げ始めただけで「わあ、見てた!」「思い出すとキュンとする!」と思わず言ってしまう方も多いはず。長きに渡る怒涛の勢いのご活躍に到るまでの軌跡と、その中で大切に守って来られた崇高なスピリットのスゴい!を追う。

 さあ、脚本家、伴一彦様のご登場です!

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◆みどころ

― はにかみ屋さんの幼少期

― 脚本家としての才能を大事に育み導いた恩師

― 大ヒットドラマ制作の名コンビ誕生

 

脚本家へのレールがうっすらと敷かれ始めた中学・高校時代

編集部(以下編):本日はよろしくお願いいたします。

伴先生(以下敬称略):よろしくお願いします。

 

編:伴先生は、子どもの頃から本や映画がお好きな文学少年でしたか? 

伴:いえ、普通の少年でしたよ。小学生の頃、図書館に行ってジュヴナイルを読んだり、紙芝居を作ったのは覚えています。それから修学旅行の時、真似ごとで俳句を詠んで先生に見せたりしましたけれど、珍しい遊び道具を見つけた、くらいの感覚でしたね。通信簿には、はにかみ屋で人見知り、ってよく書かれてました。今は図々しくなってますけど(笑)。映画は、父や祖母と東宝のゴジラの映画などをよく観に行ってました。あとは『わんぱく戦争』『フランダースの犬』など子どもの友情ものを観たのを覚えてます。中学生になってからは、一人で、もしくは友人と観に行くようになりました。

 

編:修学旅行で俳句を詠むとは…もう既に、書く感性が芽吹いていたのですね。では、そこから脚本家を志すに到った経緯とは?

伴:当時は特に何になりたいという思いはなく、脚本を書くことを仕事に、と思ったのもずっと後の話で。ただ中学の時、ある先生に出会い、書くこと、読むことの楽しさを教えてもらいました。その先生は宮沢賢治と機関車が好きで、詩集も出しているような方でした。文芸部で文集を作ったり、『中学生文学』という雑誌のコンクールに作文を出したり。先生は自分の好きな世界を生徒にも伝えたかったのでしょうね。

 

編:それはステキな出会いでしたね!ところで『中学生文学』に応募した作文はどうなりましたか?

伴:佳作に入ってました。作文の内容は覚えていませんが…。                             【当時の中学生文学 ご自宅所蔵より】

編:やはりスゴいですね!高校時代はどうでしたか? 

伴:映画と本が好きだったので、映画研究部と文芸部に入りました。映研で映画を作ったりしたけれど、僕にはリーダーシップもないし、人と関わるのも面倒くさいんだと判りました(笑)。高2か高3の時、地元福岡で今井正監督の『あゝ声なき友』の映画の試写会に行くと、脚本を書いた鈴木尚之さんとキネマ旬報編集長の対談がありました。生きている脚本家を見たのはそれが初めてで、おお!って思いましたね。それから『あゝ声なき友』の脚本を分析したりしました。それで「映画の基礎は脚本だ!」と気付いたんです。

 

編:その後、非常に感銘を受けた方は?

伴:その頃色んなシナリオを読んだんですが、石森史郎さんの『約束』『旅の重さ』のシナリオを読んで驚きました。ト書きは無機質なイメージがあると思いますが、文学的な表現だったんです。高3で、大学受験どうしようか、行きたい大学がないなあと思っていたんですが、日大芸術学部に映画学科というのがあると知り、「へえ、大学で映画の勉強をしていいんだ!じゃあ、そこ受けよう。」と。しかも石森史郎先生が教えていらっしゃったんです。

 

編:なんという巡り合わせでしょう!東京で映画の勉強をすることに対し、ご両親は何と? 

伴:両親共に何も言わなかったので、「好きなことをしなさい」ということだと解釈しました。無事入学してシナリオコースに入ると、2クラスに分かれました。運任せでしたが、希望が叶って石森先生のゼミに入れたんです。実はつい最近、先生と話したら、「僕の方から伴君をうちのクラスに入れたんだ。」って仰言ったんです。

 

編:スゴい!とても見込まれたのですね。ゼミではどんなことを教わりましたか? 

伴: 「シナリオとは?」という根本から、ト書きの書き方、タイトルの付け方、ドラマにするとはどういうことか、などなど1年かけて全部教えてくれました。3年生の時にまた石森先生のゼミだったんですが、その時はギリシャ悲劇の『オイディプス王』を1年かけて分析してくれました。それも石森先生によると、「伴君にちゃんとドラマを教えないといけない。だから『オイディプス王』を教材にした」って。

 

編: ひゃー‼ (この子は真剣に育てなければ…!)と、偉大な先生をして、そこまで責任感を持たしめるほど光っていらしたのでしょうね。

共に授業を受けた皆さんも、卒業後ご活躍ですか? 

伴 :ゼミの同期でシナリオライターになったのは、僕一人だけですね。映画学科で他のコース出身者には、シナリオライターや映画監督になった人も多いんですけど。

 

編:プロとしてやっていくのは、やはり難しいのですね。伴先生は、どのようにしてプロになられたのでしょうか? 

伴:一流の映画監督、脚本家である猪俣勝人先生に、にっかつ撮影所に連れて行ってもらったのがデビューのきっかけでした。

 

編:キーパーソン、猪俣先生との出会いはどういう経緯で?

伴:猪俣先生も日芸で教えていらっしゃいました。でもお会いしたのは撮影所へ連れて行っていただいた日。どうして僕を連れて行ってくれたのか、いまだに判りません。石森先生から僕のことを聞いたからなのかな。

 

編:きっと先生方の間で有名だったのかもしれませんね。それでにっかつ撮影所ではどのようなことを? 

伴:土曜ワイド劇場が始まる直前で、2時間ドラマ(その頃は90分でテレフィーチャ―と呼ばれていた)の企画開発のために若手が集められたんです。その後売れっ子になった丸山昇一さんも一緒でした。企画会議に出て、プロット(企画書)を書きました。その時のプロデューサーとの出会いが、にっかつロマンポルノとテレビドラマでほぼ同時にデビューするきっかけになりました。

 

編:出会いって本当に大事ですね! 

伴:デビュー後も出会いはまだまだ続いていって...。にっかつで拙作に出演してくれたある男優さんに、TBSの八木さん(後に伴先生と何度も組んで大ヒットドラマを手掛けたプロデューサー)を紹介してもらいました。

 

編:おお、八木さんとの運命的な出会い! 

伴:でも1年くらい音沙汰なく、ある日、新しいドラマを作るから企画会議に出てくれないか、と電話があり、放送作家や若手ディレクターたちと企画を練りました。八木さんも当時は新人でしたから、企画を通すために企画書を作る必要がありました。企画書にはサンプルストーリーが7本くらい載ったんですが、そのうちの半分以上を僕が書いて、通りました。一話完結7本のシリーズだったので、八木さんは有名な作家7人に書かせるつもりだったようです。でも僕のプロットが好評なこともあり、結局、僕一人で完投しました。

 

編:既に、有名作家さんたち7人分のお仕事を?!

伴:フジテレビで仕事をするきっかけはこうです。『うちの子にかぎって...』のリハーサルは、赤坂のTBS(旧局舎)で行われていたんですが、終わって近くにある、元にっかつのプロデューサーの事務所に遊びに行ったんです。そこにちょうどフジテレビ編成局のプロデューサー、亀山千広さん(後のフジテレビ社長)がいらしてて、「フジでも若い人向けのドラマをやりたいので」と言われ、後日、山田良明プロデューサー、河毛俊作ディレクターを紹介されました。そのように出会いが繋がっていきました。

 

編:出演してくれた男優さんと話してなかったら…事務所に遊びに行かなかったら…流れが違っていたかもしれませんね…。

それでは今日は最後に、脚本家を目指す方向けのお話を伺いたいと思います。先生はHPでシナリオを数多く公開なさっていますが(HPは現在、更新停止中)、若手の育成もなさいますか?若手に力を付けさせて送り出すということは、嬉しいと同時にライバルを増やしていくことにもなりますよね。 

伴:本当は局や映画会社が脚本家を育てるべきなんですが、やらないので、シナリオ作協や日脚連など、脚本家がやっています。

「ライバルを育てることになる矛盾」は昔から言われるけれど、新人がいいものを作っていけば映画やドラマ界が盛り上がり、我々の仕事も広がるんだ、っていうのが先輩たちの考えです。僕も石森先生に育ててもらったのだから、教えられたことを伝えるべきだと思っていました。

ただ、30代で作協がYMCAでやっていた講座を受け持った時のことです。テーマが伝わらない、ドラマになっていないからアドバイスすると、50代の女性だったんですが「あなたには私たちの気持ちがわからないのよ!」と上から目線で言われて。いや、その気持ちが伝わらないシナリオはダメでしょ、と言ってるのに。生徒にそういう人が結構多くて、懲りました(笑)。それでしばらく教えるのはやめていたんですが、数年経って「電脳シナリオ塾」を開塾しました。

 

編:よくまた教えようと思われましたね。 

伴:YMCA時代の生徒に、売れっ子になった野島伸司さんがいました。プロットでいいのに、毎週シナリオを提出する熱心さでした。そういう出逢いがありますからね。

「電脳シナリオ塾」の生徒の何人かはプロになりましたが、口ばかりで書かない人や、売れてる脚本家の近くにいるだけで脚本家になったような気になる人も多く、多忙なこともあってやめました。

 

編:才能以前に、教わる姿勢が生徒さんによって天と地の差だったのですね。

脚本家志望の方の為に、何か勉強法のアドバイスや、大切だと思う必要な能力を挙げていただけますか。 

伴:勉強法は、映画を観るのはもちろんですが、名作や好きな映画のシナリオを筆写する。今はDVDや配信がありますから、映画からシナリオを書き起こすのもいいですね。そのシナリオから、小バコ、中バコ、大バコと、執筆と逆の順番で分析するといいです。 それに、何より書かないと始まりません。書き出したらエンドマークまで書くこと。シナリオを書く上で私が大切にしているのは、日常的なことを非日常に、非日常を日常に。これはレイ・ブラッドベリの言葉です。つらい現実をそのまま見せてもドラマじゃないですからね。また、大きな嘘はつくが、小さな嘘はつかない。たとえば『パパはニュースキャスター』。同じ名前の同年代の隠し子がいるというのは大嘘だけど、4人の暮らしぶりはリアルに描く、といったことです。それから、これが儲かりそう、視聴率が取れそう、という発想ではなく、自分が面白いと思ったものを書く。それが自分にしか書けないものだと思います。それを面白がってくれるプロデューサー、監督と組めればベストです。

 

編: 具体的に貴重なアドバイスをありがとうございます。思いを共有できる方々と組めるかは、運とかご縁ですよね。 

伴 :そうですね。人との出会いは本当に大切です。こう言うと、業界人がいるところに出入りしてチャンスをつかもうとする本末転倒な人もでてくるかもですが…。出会いからチャンスを掴んだとしても、応える実力がないとダメ。基本の勉強を怠らず、センスを磨く、アンテナを張ることも大切です。デビューが目的じゃないですからね。仕事しながら常に学んでいきましょう。

 

編:とても詳しくありがとうございました。

 

後半となる2日目の明日は、伴一彦先生の仕事の流儀や失敗談、ここでしか聞けない裏話などを伺います。お楽しみに!

 

◆伴一彦氏 プロフィール

福岡県出身 195483日生まれ 日本大学芸術学部映画学科シナリオコース卒業。在学中より石森史郎氏に師事。

 

◆作品歴

・テレビドラマ『うちの子にかぎって...』『子供が見てるでしょ』『な・ま・い・き盛り』『パパはニュースキャスター』『君の瞳に恋してる!』『恋のパラダイス』『逢いたい時にあなたはいない...』『子供が寝たあとで』『誰かが彼女を愛してる』『ママのベッドへいらっしゃい』『透明人間』『ストレートニュース』『レッツ・ゴー!永田町』『サイコドクター』『喰いタン』『デカワンコ』『東京全力少女』『世にも奇妙な物語』『ノンママ白書』他多数。 

Webドラマ『でぶせん』(完全版)

・映画『バックが大好き!』『デボラがライバル』『殴者』『初雪の恋 ヴァージン・スノー』他多数。 

・舞台『舞台版JKニンジャガールズ』

 

◆公式HP BAN IS FOR BAN」‐ぷらら www.plala.or.jp/ban/

20209月現在、更新は停止しています。

◆最新著書 2020910日発売!

『追憶映画館 テアトル茜橋の奇跡』(PHP文芸文庫)

2021年1月20日発売!

オリジナル長編小説 『人生脚本』(光文社)         

 

◆既存の著書

『逢いたいときにあなたはいない...』(1992年・ワニブックス)

『ラヴ・コール』(1994年・扶桑社)

『みにくいあひるの子とよばれたい』(1995年・偕成社)

 

        取材:アレス ライター:MAYA 翻訳:Tim endland

        取材協力:FOODHALLBLAST新宿店

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