月9『海月姫』『海の上の診療所』の脚本を手掛けたスゴい人!

小学1年生から大学生まで毎日書き続けた日記

3日で3本を書き上げ、人生が変わった

初めての月9で経験した「先発完投」の苦しさ

本日登場するスゴい人は、脚本家として活躍するスゴい人。
月曜夜9時のフジテレビ(月9)『海月姫』や『海の上の診療所』の他、『水球ヤンキース』、『探偵の探偵』、『HOPE〜期待ゼロの新入社員』、『僕たちがやりました』などを執筆。
彼は大学を卒業後、人材派遣会社へ就職し、約8年間サラリーマンをしながら脚本家としての活動も続け、独立した。
脚本家という狭き門をくぐりぬけ活躍するスゴい人の歩みを聞かせていただこう。

さあ…
脚本家
徳永 友一様の登場です!

小学1年生から大学生まで毎日書き続けた日記

子どもの頃は、日記を書くことが好きでしたね。
きっかけは宿題だったと思うのですが、書いたら面白くて、小学1年生から大学生くらいまでずっと、毎日書いていました。
それで頭の中を整理する力を養ったんだと思います。
学校ではふざけたりする明るいタイプでしたが、日記の中では内省的でしたね。
小学校高学年くらいから、ドラマが好きになりました。
ドラマを通じて家族のことや友達のことを学んだので、ドラマから学んだことや感想を日記に書いていました。

応援に支えられたサラリーマン時代

脚本家を目指したのは20歳くらいで、大学に行きながら脚本家のスクールに通いました。
楽しかったですね。
ドラマがどうやってできているのか、ただ書きたいことを書いているのではなく、緻密な計算をされているとわかると面白くなりました。
大学卒業後はインテリジェンス(現パーソルキャリア株式会社)に就職し、最初はサラリーマンをしながら脚本を書いてコンクールに出していました。
脚本家を目指すうえで、派遣会社に勤めて色々な企業を見られたら勉強になると思って入社したのですが、とても恵まれた環境でした。
当時から「脚本家になりたいです!」と話していたので、周りの人が応援してくれて。
社内のコミュニティサイトの運営管理に抜擢され、そこで小説を書くことになりました。
だから、僕が初めて物書きでギャラをもらったのは、その小説だったんです(笑)
デビューした時は社長からお祝いをいただき、「食えるようになるまでは働いていていい」と言っていただいて、いい会社でした。
退職して十数年経ちますが、今でも仲が良いんです。

コンクールは4年間全く通らなかった

一般的に脚本家はテレビ局の開催するコンクールに作品を出し、そこで受賞したり、最終選考に残ったりすると声がかかるようになります。
1つのコンクールに2000作品くらい応募があり、1次を通るのが300作品くらいなのですが、初めの4年間は1次も通りませんでした。
ただ、漠然と「なれる」と思っていたので、クサりはしませんでした。
初めて1次を通った作品が2次、3次、最終選考と進んで、賞は取れなかったものの、それを足がかりにデビューにつながっていきました。
振り返ると最初の4年間も大事な時期だったと思えますが、通らなかった頃の作品は概念的で、自分が書きたいものをエンターテイメントとして見せられていませんでした。
自分は書いていて楽しいけれど、人が見て楽しくない作品だったのだと思います。
4年かかって突き抜けて、見せ方がわかるようになりました。

初めての企画と悔し涙

サラリーマンだった頃、『R25』が好きで電車の中で読んでいたら、「電車男」の記事が小さく載っていました。
これは企画になると思い、制作会社のプロデューサーに話して一緒に企画し、フジテレビに持って行くと「これは面白いね」と、とんとん拍子に連ドラ化が決まりました。
でも僕はデビューもしていない作家なので、そこで終わりなんですよ。
作家は違う人でやることになり、打合せは参加していいと言われて参加していたのですが、途中で上手くいかなくなって人員整理があり、クビになってしまったんです。
一緒に企画したプロデューサーと二人だけで打ち上げをしたのですが、その時に叱られました。
「連続ドラマの企画を通して、打合せの現場にいられるなんてことは5年に一度あるかないかの大チャンスだ。やる気が本当にあって掴み取りたかったら、一話脚本を書いて見せれば良かったのに。そのくらいの根性を見せたら良かった。」と言われて。
僕は意見も言わず、参加して満足していて、何をやっていたんだろうと思い、その日は泣きながら帰りましたね。
「次にチャンスが来たら絶対に掴み取ろう」と決意しました。

3日で3本を書き上げ、人生が変わった

『電車男』放送開始の1か月程前に「作家が書けなくなって、6話を誰かに書かせようという話がある。もう一回お前にチャンスを与えたい。書けるか?」と連絡があり、もちろん書くと答えました。
締切は3日後でしたが、一度チャンスを逃した悔しさから1日で書いて提出すると「キャラクターが全然違う。もういい。」と言われ、「あと2日あるからもう一度書きます!」と、翌日2本目を出しました。
今度は「面白かったけれど、伊豆にロケには行けない、ごめん」と言われ、最後の1日で3本目を書いて提出。
明け方に「満場一致でお前に決まった」とメールが届きました。
三日三晩寝ずに、3日で3パターン書いて、あの時はよく頑張ったなと思いますね。
悔し涙が根性を生み出し、あの3日間が僕の人生を変えました。
そのくらい大きな3日間でした。
デビュー作のオンエアは、友達を家に呼んでみんなで観ました。

初めての月9で経験した「先発完投」の苦しさ

連続ドラマは「先発完投」と言って、1話から最終話まで一人で書き切るのがすごいことなのですが、それを初めて任されたのが、ずっと書きたかった月9の『海の上の診療所』というドラマでした。
「絶対に最後まで書き切ろう」と思っていたのですが、どんどんスケジュールに追われ、最終的にはスタジオの近くにホテルをとってもらい、2か月間ホテル住まいをして書き切りました。
打合せをして、毎日直して、眠れずに朦朧としながら書きました。
「僕が潰れたら他の作家を入れられてしまう」という思いで乗り切りましたが、先発完投はこんなにも苦しいのかと思いましたね。
精神的にタフでよかったですが、この時は本当に苦しかったです。
でもこれを乗り越えたからこそ、「先発完投できる作家」になり、今があります。

視聴者の声が励みになる

脚本家をしていて嬉しいのは、やっぱり視聴者の皆さんの声ですね。
特に今はTwitterなど、ネットで声を拾えるので「前向きに生きられるようになった」などのコメントがたくさんあると、ドラマで恩返しできていると感じて嬉しく、夢のある仕事だと思います。
また、脚本家を将来の夢にすると、振られても、友達に裏切られても、すべてがプラスになるので、素敵な夢だと思います。
今後は、映画も積極的にやっていきたいと思っています。
映画はお客さんと一緒に観られるじゃないですか。
だから、「ここでこんなに笑うんだ」とか、そういう意外な発見も味わいたいです。
すでに決まっている映画の作品もありますが、どんどん書いていきたいと思っています。
7月クールのドラマの脚本も執筆するので、楽しみにしていてください。

取材を終えて

数年前に脚本家1本で食べていけると独立された徳永さん。サラリーマン時代も相当仕事が出来たかと思う。脚本家になるために多くの職種を見たいと選んだ会社。社長も仲間達も喜んで脚本家という夢に向かう徳永さんを応援してくれたという。それは徳永さんのお人柄含め仕事ぶりをみてのことだと思う。年間に作られるテレビドラマの数は限られているがその狭き門から仕事を手にする事は尋常な事ではない。定職に就きながらチャレンジする事は色んな意味で正しい選択なのかもしれない。
徳永さんが手掛ける今後の作品が楽しみである。

プロフィール

徳永 友一(とくなが・ゆういち)
脚本家

◆オフィシャルホームページ http://rantan.pro/

2005年フジテレビ系ドラマ「電車男」第6話で地上波デビュー。
その後、コメディ、サスペンス、ホームドラマと
ジャンルを問わず多数の作品を手がける。
現在は映画や漫画にも活動の幅を広げている。

●2019年に公開「翔んで埼玉」の脚本を担当。
 魔夜峰央さんの「翔んで埼玉」の実写映画化!
 二階堂ふみさんとGACKTさんのダブル主演。
 https://natalie.mu/eiga/news/277153

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