「フリ」から本職に
誰もやらないことをやるしかない!
当たり前が当たり前じゃない
本日登場するスゴい人は、仕立て上がった着物を販売したり、浴衣を夏の外出着として普及させるなど、着物業界に様々な衝撃を与えてきた業界の革命家。
しかしそれは、業界の外側からクールな視点で着物の普及に努めて、和服への入り口を広げることにつながっている。
テレビドラマでも、新装大橋ブランドの鮮やかな新しい着物や浴衣が登場している。
日本人にとって、自国の文化である着物は誰もが憧れる存在ではないだろうか?
新しい風を常に吹かせている本日のスゴい人の生き様を覗いてみよう。
さあ…
株式会社新装大橋 代表取締役会長
大橋 英士様の登場です!
目立たない、おとなしい子ども
小さい頃は、目立たない、おとなしい子でした。
3月生まれなので、同じ学年でも一番小さくて。
生まれは京都の西陣、父が初代の帯屋でした。
両隣の家からは西陣織のリズミカルな機音が聞こえる環境で育ちました。
僕は物心ついた時から着るものに興味があって。
高校の時には制服を全部バラして縫い直したりしていたんですよ。
ウエストを絞る、パンツを細身にする、ポケットにジッパーつけるとか、色々やりました。
細身のズボンは校則に引っかかるけれど、内側にジッパーをつけて自由自在に!(笑)
友達からも頼まれたりして、随分楽しんでいましたね。
目立たないながらも、自分だけの何かを主張していた学生時代でした。
「フリ」から本職に
父は「全く継ぐ必要はないから好きなことをしたらいいよ」と言ってくれました。
僕は「着るもの」の職に就きたいなぁと、漠然と思っていました。
大学卒業1ヶ月前くらいに、急に、父は家を継いで欲しいのかな?って思ったんです。
僕は父が50歳の時に生まれたので、大学を卒業するときには70過ぎ。
お父さんというよりもお爺ちゃんみたいな感じがして。
これから長いこと仕事をしても10年くらいだろうし、まぁ10年くらい継ぐ顔をして、あとは好きにやろうって思ったんです。
父に会社を継いでもいいよ、と伝えるとものすごく喜んでくれました。
継ぐ「フリ」をしながら様子を見ていたら、だんだん着物も着るものだと気付いて。
帯屋は着物がないと成り立たないので着物も帯も全て扱おう、やりたいことが父の会社でできる!と思うようになりました。
誰もやらないことをやるしかない!
着物業界というのは老舗のお店が多くて、何百年続いているとか、100年くらいはざらなんです。
うちは現在創業65年、後発も後発なんです。
先代が仕事をしていた時も、みんながやっていることでは絶対に太刀打ちできないわけですよね。
だから、誰もやらないことをやるしかない!というのが創業当時からの精神でした。
みんなが東を向いたら、多分西に何かがある!とかね。
川の流れが上から流れていても、岩の後ろには反対側に流れている部分もあるでしょう?
そういうところでしか後発部隊は生きていけないんです。
先代は帯を2つに切って、誰でも簡単に結べる二部式の帯(商標名:新装帯)を作りました。
長い帯を結ぶから縁起がいいわけで、それを真っ二つにするなんて!と当時は相当風当たりが強かった。
でも結べなかったら意味がないので、結べない人からの支持は厚く、大ヒット商品となりました。
最初からアバンギャルドな会社なわけだから、みんなそういう目で見ますよね。
「おもしろいことやってはりまんなぁ。」と京都風にやんわり言われていました(笑)
自社ブランド「撫松庵」誕生
1977年、きもの・帯ブランドの「撫松庵」を発表。
2~3年様子を見ていましたが、京都から新しいことを全国的に発信するのはかなり時間がかかると思ったんです。
新しいことは東京から発信すべき!と、突然家族全員で東京に引っ越しました。
でも、なかなか簡単に話は進みません。
東京にあるデパートの上の人に何度も掛け合い、発表から6年、ついに銀座松屋に1号店をオープンしました。
普通なら2~3年で諦めるところですが、これしかない!という信念で進んでいたからですね。
新しいものはすぐには受け入れてもらえませんが、方向を間違えていなければ徐々に受け入れてもらえるようになります。
そのうちなんとかなるやろ~、という気持ちもいい意味で力が抜けていてよかったかもしれません(笑)
「業界初」が様々なブームを起こす
銀座に1号店が出来た途端に、渋谷、池袋と全国に撫松庵のショップができました。
これを機に「業界初」の試みを多数世に出してきました。
今までの着物と違い、仕立て上がった着物を販売。
さらに、着物・帯をはじめ、全てをトータルコーディネート。
これは「ニュー着物ブーム」となりました。
さらには「浴衣ブーム」。
着物をもっと簡単に気楽に着られるように浴衣に注目。
浴衣はそもそも湯上りに着るもので、外出着としてはタブーとされていたんですね。
でも夏の遊び着としてオシャレに着こなせる浴衣を作った。
これも業界初です。
そして「リサイクル着物ブーム」。
普段着物を着たい人がもっと安く着られないか?と考えた時にタンスの中のものを活かす必要があると着目。
昔は年に1回、必ずタンスのものを外に出して風を通す虫干しという習慣がありました。
防虫剤の発展でその習慣も無くなり、タンスの中のものを出さなくなった。
古いものが動かないと新しいものが売れなくなります。
活性化させるために全国の百貨店でリサイクル着物「ながもち屋」をスタートさせました。
他のリサイクルショップは買取が主ですが、うちは1点1点お預かりする形を取っています。
最適な値段を付け、販売価格の50%をお返しするシステムです。
これは面倒だから誰もやっていませんが、最終的に良い商品は他社に売らず弊社に集まってくると思っています。
当たり前が当たり前じゃない
業界初という新しいきっかけや新しい風を吹き込んでいますが、それは生き抜くための宿命。
着物業界からしたら当たり前ではない、普通ではない。
でも業界外から見ると当たり前で普通のことだと思いませんか?
着物が洗えるって業界からしたら普通じゃないけど、服って普通に洗えますよね。
「フリ」で始めたこの仕事、業界に入っているようで入っていない。
常に業界の外から見ているんです。
業界の人は着物を伝統工芸品や民族衣装として考えていますよね。
それはそれでいいんです。
伝統を守るって、何も変えたらあかん!って思う人もいるけれど、伝統は続いていかないと途絶えてしまう。
だから続けるためには変えなきゃいけないと思っています。
ノンストレスの着物へ!
ここへ来て、もう1つ新しい風を吹かせたいと、今一番考えていることは、ストレスのない着物。
汚したらどうしよう、着崩れしたらどうしよう、後片付けが面倒…などというストレスをなくしたい。
8年前にデニムの着物を発表しましたが、こんなにもストレスを感じなかった着物はありえなかった。
着物は着たいけれど敷居が高くて着られないという人が多いので、デニムきもので和服に興味を持ってもらえたらと思います。
意外にも着物上級者がこんな着物を待ってた!と言ってくれたんですよ。
誰でも自由に自分らしく、日本の手仕事のなせる手技で作られたデニムきものをメインに、ストレスのない着物を作っていきたいと思います。
取材を終えて
洋服で取材を受けてくださった大橋会長。
メッセージボードを持って写真を撮らせていただいた時にはデニム着物に早着替え。
こんなに簡単にカッコよくオシャレに着こなせるなんて!と目の当たりにしました。
ご本人自らモデルになっていらっしゃるのも頷けます!(笑)
伝統は守らなければいけないけれど、途絶えてしまったら元も子もない、というお話も興味深かったです。
帯バックという商品も見せていただきましたが、これまたびっくり!
時代は変わる、それに合わせた文化の発展をしなければいけないことを学びました。
いつもオシャレな大橋会長の様子や新しい発想の商品などは、ぜひホームページや会長ブログをご覧になってください!
プロフィール
大橋 英士(おおはし・えいじ)
株式会社 新装大橋 代表取締役会長
きもの・帯ブランド撫松庵(ぶしょうあん)オフィシャルサイト https://www.bushoan.co.jp
1942年、京都生まれ。
1953年、「大橋商店」京都西陣で創業
1965年、「新装きもの学院」設立
1969年、「新装レイきもの」発表
1970年、「かさね帯」「華かさね」販売、大ヒット
1977年、「撫松庵」発表
1981年、文化庁監修による「名物裂24裂復元」完成
1982年、「ヴィンテージクローズ0324」オープン
1983年、銀座松屋に「撫松庵」1号展オープン
1984年、「Kimono Re Revolution」
1985年、撫松庵「毎日ファッション大賞」「繊研賞」を受賞
同年、「ながもち屋」1号店 人形町にオープン
1986年、「撫松庵展」パリ・ラファイエット
同年、「青々庵」発表
1987年、「撫松庵ゆかた」発表
同年、撫松庵「十年の証明展」
1988年、「撫松庵撫子人形」発表 アイトーとのライセンス開始
1991年、「撫松庵ジュニア」発表
1992年、西武池袋本店「ながもち屋」1号店オープン
1997年、「冬のゆかた」発表
1998年、西川リビングとのライセンスを開始
同年、「私ごのみ展」
1999年、「ちょい、あそび展」始まる
同年、「撫松庵ジェニー」発売
2002年、セレクトショップ「装+」1号店 東急百貨店渋谷店オープン
2008年、「撫松」発表
2010年、「デニムきもの」発表
2011年、撫松庵とながもち屋のリミックスショップ「Re きものスタイル」1号店オープン
2012年、業界初の「レザーきもの」を発表