中学1年生からアルバイトで料理の道へ
学歴の代わりに賞状をむさぼる日々
自分への評価は厳しく
本日登場するスゴい人は、「大車輪侍」としてメディアにも出演する、日本料理の料理人!
その卓越した技能で日本料理の全国大会「第17回日本料理技能向上全国大会」において農林水産大臣賞を受賞。
現在はレストラン経営やプロデュースなど、幅広く活躍している。
彼はなぜ、包丁づかいを極めることになったのだろうか?
さあ…
株式会社ハイファイブス
代表取締役 岩井 満喜様の登場です!
突然始まった母子4人の生活
中学に入って少し経った頃、父親が商売に失敗して、いなくなってしまいました。
普通の一軒家に住んでいたのが、急遽引っ越さなければならなくなり、小さな部屋2つにくみ取り式のトイレがついたアパートに母親と兄弟3人の4人での生活がスタートしました。
お風呂がなかったので、毎日家族全員が銭湯に入るとなると大きな負担でした。
よく行っていた銭湯で事情を話したら「じゃあうちで働けよ」と言われ、銭湯の終わる頃に裏から入って、掃除して、一番風呂に入らせてもらって。
そうやって、お金をもらうというよりは、お金を使わない生活をしていました。
中学1年生からアルバイトで料理の道へ
飯は食いたいから働きたいと思い、当時はまだ昭和50年代で緩かったので、中学生でしたがデパートのレストランでこっそり使ってもらうようになりました。
ウナギ屋さんで、ウナギは割くのに3年、串うち5年、焼きが一生とも言われ、焼くことに関しては一生かかってまだまだ勉強といった世界です。
当時は包丁を持っていなかったので「お前よくできるな、今度ウナギ焼いてみろよ」という感じで、焼く作業からやらされました。
始めは1枚ずつ焼いていたのが、2枚同時になり、4枚になり、最高12枚になり、職人さんレベルのことをやるようになりました。
おかげさまで、中学生でプロ級になりましたね。
みんなが高校に行くというので入ってみたのですが、すぐに退学になってしまい、料理の道で行こうと再び働き始めました。
野菜アートとの出会い
野菜アートに出会ったのは17~18歳の頃。
若い調理師さんたちが集まる勉強会に顔を出した時に、料理剥き物、いわゆる野菜の彫刻の基本的な勉強をさせてもらって、面白く、とても惹かれました。
その技術を極めるうちに何が大事なのかということに気づかされて、更にのめりこみました。
野菜を切ったり剥いたりという技術は日本料理でなくてはできないので、最終的には料理の本筋とつながってきます。
日本料理は切ることに対してすごくストイックな料理で、細胞を生かしたまま切る、切れ味にこだわります。
鍛錬された包丁を研ぎあげて切った時の、きっと切られた野菜も自分が切られたことに気づいていないくらいの切れ味の中で芸術的な作品も出来上がるし、大根のツマや野菜を切ったものなど、味にも変化を出せるという結論に至ったのです。
資格は最速で取得
高校を退学になってしまったので、自分の中には学歴コンプレックスがありました。
現場に入って2年後には調理師の受験資格があるというので、自分で勉強して、受験資格を得てすぐに取りました。
学校の勉強はあまり好きじゃなかったんですけど(笑)
調理師の資格を得てから実務経験7年後にはさらにその上の国家資格が取れるので、そこを目指して全部ストレートでとってきました。
その頃タイミングよく、埼玉の職業訓練校から調理科を新設するから講師で来てくれないかという話がありました。
そこで初めて教鞭をとり、30くらいの時に調理師専門学校からスカウトがあって、専門学校と短大で教えていました。
中卒で教鞭をとったというのは、誇りというか、話のネタになっていますね。
学歴の代わりに賞状をむさぼる日々
コンクールは自分に対する評価、人が自分のことをどう評価してくれるかを知るための場だったんです。
また、妻に出会ったのが25歳くらいで、しっかりした家柄の娘さんだったので、中卒じゃ釣り合わないと思い、何か自信を持てるものを目指してコンクールに出ました。
軽い気持ちでいったら2位になり、「1位いけるんじゃないかな?」と思って。
当時は根拠のない自信の塊でしたから(笑)
学歴の代わりに賞状の山を常にむさぼり続けていましたね。
毎回出るたびに、上には上がいると気づかされましたので、その中でどんな努力をしたらいいのかを自分なりに考えました。
古典的な日本料理もあり、斬新な新進的な和食もある世界で、自分は昔から伝わる日本料理を、いかに美しく見せるかということに徹するようになりました。
「おいしい」が何よりの喜び
お客さんと対面で働いているので、「おいしかった」「ごちそうさま」「ありがとう」という言葉は日々の中で一番嬉しく、喜びを感じる部分ですね。
大人の方の中には、良かれと思ってそう言ってくださる方もいると思うんです。
でも僕が本当に聞きたい、真の「おいしかった」を聞けた機会がたまたまありました。
以前に保育園の給食をぜひ作ってくれないかという依頼を受け、毎日作りに行っていたんです。
食べた後に保育士さんに言われたわけでもなく、みんなでほっぺたに指をあてて僕に「おいしいポーズ」をしてくれて、子どもたちの本当の答えを体験できたので、それは自分にとって最高の勲章です。
大車輪侍誕生
料理人はたくさんいるけれど、包丁の使い方のテクニックを伝える人はあまりいないと思い、現在の活動を始めました。
ある時、フルーツの早剥き対決をフルーツカットの有名人の方と1対1ですることになったのですが、和包丁はフルーツを剥くのに適していません。
今持っている包丁でどうやって剥こうかなと考えている時に、スイカの上と下を切り、半分に切って、それを転がすようにして皮をむくという方法を編み出したんです。
それが、車輪が転がっているように見えるということで、「大車輪侍」という名前が付きました。
今は包丁づかいと言えば大車輪侍となって嬉しい反面、YouTubeやテレビで僕を見た人は、包丁で速く切る、野菜アートの人といった印象ですが、現場ではそういうものを実際にお見せする機会や時間がなく、残念ですね。
自分への評価は厳しく
自分より努力している人は世の中にごまんといるから、自分が一番じゃない。
僕が今こうして食べて生きていられるのも、偶然人の目に留まったからだと考え、あまり過信しないようにしています。
自分には甘い評価をしてしまうと、周りの人はもっと厳しいので、自分を追い込んでいます。
また、無駄なことは何もないと思っています。
僕は、趣味でパソコンをやって自分のホームページも作りますし、絵も書も彫刻もやります。
趣味も仕事での経験も、一つ一つは点なのですが、年を取るとこの点が全部線でつながると気付きました。
今後はプロデュース業にも力を注いでいきます。
和包丁をはじめ、日本のいいものをもっと世界中の人に知ってもらいたい。
僕は包丁の専門家なので得意の包丁を販売するビジネスをやっていくと同時に、食器もセレクトして、海外に日本ならではの食器を紹介していきます。
YouTubeの番組も充実させたいですし、やりたいことは、まだまだたくさんあります。
取材を終えて
池尻大橋のお店で取材をさせていただきました。
12歳から日本料理の世界で働き続けてきた岩井さん。
メディアでは大車輪侍として包丁づかいを披露し、数々のコンテストで賞を獲得し、お店の運営やプロデュースもされている。
その活躍の幅広さに驚いていたのですが、野菜の彫刻はアートでありながらも、日本料理独自の技術を活かしたものであり、その技術を追求することで和食の本質をさらに深めたというお話をお聞かせいただきました。
岩井さんの仰る、切る技術によって味にも変化を出せるというのを、ぜひ実感してみたいです。
昼と夜で二つの顔を持つお店ということなのでぜひ一度、いえ、昼と夜の二度、お伺いしたいと思います。
プロフィール
岩井 満喜(いわい・みつよし)
株式会社ハイファイブス 代表取締役
大車輪侍
日本料理で培った技術は埼玉県より平成7年に“ 「彩の国の匠」彩の国青年マイスター”の称号を料理人第一号として授与。
(※受賞時の姓は黒田)
その卓越した技能で日本料理の全国大会“第17回日本料理技能向上全国大会”において農林水産大臣賞を受賞。
技能士による技術の国体“技能グランプリ1997”において全国で銅メダルの成績を残すほか埼玉県代表として4回出場。常に上位の成績を残し、『技能埼玉』の構築に貢献。
また料理剥物(むきもの)を自らアレンジ、『野菜アート』のジャンルを確立し、テレビや雑誌等でその庖丁テクニックは多く取り上げられている。
過去には調理師専門学校にも勤務。
教員として調理実技のほか飲食店経営学、食文化概論などの教鞭もとり、「コーチング」の才能には定評がある。
2005年より、庖丁達人『大車輪侍』として活動開始。
◆大車輪侍 http://daisharin.jp/
◆TAOLU'S 池尻食堂 taolus.jp