塩だしが天から降ってきた!
1日の最低売上7,800円
借金地獄から抜け出すきっかけは固定電話!?
今回登場するスゴい人は「そば助」の創業者あり、世にない食べ物を提供し続けるスゴい人!
塩だしという醤油を一滴も使わない全く新しいつゆで食べる十割蕎麦。
本店の稲荷町から店を広げ人形町、北千住、池袋、更には曳舟や竹ノ塚のエキナカにもお店を構えている。
テレビや雑誌取材に引っ張りだこのそば屋だが、ここまでの道のりは決して楽なものではなかった。
自己破産寸前の苦悩をどう乗り越え今に繋がったのだろうか?
さあ…
株式会社ビー・スプリングス 代表取締役
そば助 創業者 八木 大助様の登場です!
のし上がる精神
小さい頃は柔道、少林寺拳法、13歳からはボクシングを始め、格闘技ばかりしていました。
ボクシングでは必ず勝ち負けがあるのですが、負けた後、悔しさからのし上がるために行っていた苦しいトレーニングは今の自分の精神を作り上げています。
23歳で独立し居酒屋を始めました。
飲食店に勤めたこともなかったのですが、スタッフと頑張って繁盛店となったのです。
商売は簡単だと思い、趣味が高じてダイビングショップもオープン。
海と水着のお姉ちゃんにハマって居酒屋は人に任せ、海に潜ってばかりいると、居酒屋の売上もダイビングのように潜っていきました。
自己破産寸前の苦悩
当時1200万円の融資を受けて800万円返せないまま3ヶ月が経った頃、債権回収会社から「ブラックリストに入ります」と電話が入ったんです。
パチンコホールで働き始め、もう少しで返済できる!と思った矢先の電話でした。
ロッカールームでその電話を切った後、あまりの悔しさに床に膝をつき鼻水と涙を流しながら「自分の苦しい人生は自己破産で終わってしまった」と思い絶望感に包まれました。
債権回収会社の窓口に行くと「完済し、復活した人は何人もいるんだから!目を覚まして頑張って返して復活しなさい!」とおばちゃんが言ってきたのです。
もう完全に諦めていたのですが、その言葉に背中を押されたお陰で無事に完済し、復活することができました。
今考えると当時は自分のことばかり考えていて、人を大事にしていなかったと思いますね。
塩だしが天から降ってきた!
「夜逃げするから店を買ってくれ」と言われて、7坪の店を100万円で取得したのがそば助の始まりです。
国民食で季節関係なくみんなが食べるそばは、大儲けはできないけれど「おいしい」と思われたら長く商売ができるから、昔からそば屋をやってみたかったんです。
ただ、取得したお店は1年に1回オーナーチェンジし、それが6代も続いたいわくつきのそば屋でした。
それなら世にないそばを作り、話題性を武器にしようと思いました。
そば屋をやるにしても何もわからないので、知り合いのそば屋で出汁のとり方を教えてもらいました。
もちろん普通のそばの出汁です。
ただ、教わっている時に既に頭の中では醤油を使わない出汁を作ったら面白いし可能じゃないかな?と思い、「ありがとうございました」とお店の扉を閉めた時には、醤油を一滴も使わない塩だしの構想が頭の中で完全に出来上がっていたのです。
1日の最低売上7,800円
「塩だし」という看板はラーメン屋だと勘違いもされ、1日の最低売り上げは7,800円(10杯)の日もあり、なかなか浸透しませんでした。
出汁を飲んで貰えればわかってくれると思い、試飲できるよう店外に紙コップと電気ポットを置いてみたら、みんなが「うまいな」と言ってくれ、これは絶対売れる!と自信になりました。
更に人気店に見せるためドラム缶を外に置き、外で食べたお客様にはお礼でゆで卵をプレゼントしたりしました。店内はガラガラなんですが(笑)
借金地獄から抜け出すきっかけは固定電話!?
1店舗目である稲荷町店は少しずつ売上も上がり、2店舗目の北千住店を開店したらまたゼロから「塩だし」文化の普及で本当に大変でした。
この時から毎月200万円の赤字で、借金が億を超えた時は頭がおかしくなりそうでした。
いい歳して、まだ苦しい人生が続くのかと思っていましたが、今ここで潰れたら若い頃に苦労した経験が全て無になる!乗り越えられない壁は出てこないと思い、自分の作った味とお客様からの「美味しい」という言葉を信じ続けました。
北千住の人たちも食べてくれれば稲荷町店のようにリピートしてくれる自信はありました。
営業電話が嫌いで固定電話は置かなかったのですが、設置した途端取材がひっきりなしに入りだしたのです。
テレビ取材のお陰で翌日は大行列!
その後も有り難いことに取材が続き、最近になってやっと黒字化したのです。
こんな面白いそば屋をなんで取材しないのかと思っていたのですが、電話を設置していなかった僕のせいでした(笑)
どんどん出店しているので周りの人達は「そば助」は儲かっているな!と思っていたと思いますが、実は出店しないとキャッシュフローが回らなかったのです。
命を繋ぐそば助
若者メンタルサポートのNPO支援や犬猫殺処分ゼロを目指している子犬の里親の会で副理事長になりました。
そして、これからは児童養護施設の子ども達も「そば助」で働けるよう支援して行きたいです。
お店まで来られないお年寄りには施設までそばを出前したり、子どもからお年寄りまで相手を敬う文化を「そば助」を通じて作り上げて行きたいんです。
「命を繋ぐそば助」を全国に作り上げるのが夢です。
そんなそば助の夢の話をしていると皆さんから応援したいと言われ、他人事のようにびっくりするようなラッキーな出来事が沢山起きています。
ラッキーなことがくると運を使い果たしたという人がいますが、僕は「それがラッキーのスタートでもっといい話が舞い込んでくる」と信じています。
ゴングは自分で鳴らせ、クレイジーになれ
片岡鶴太郎さんの「汝の立つところ深く掘れ、そこに必ず泉あり」という言葉が好きです。
一生懸命掘り続け、もう駄目だと諦めてしまう人って意外と多いと思うんです。
でも、あとひと掘りで泉に辿りついたかもしれないんです。
だから僕は辛くても苦しくても泉にたどり着くまで掘り続けました。
自分で鳴らしたゴングなのだから、自分で最後のゴングも鳴らさないとかっこ悪いよね。
お陰様で出店に関しては日本全国から引き合いも頂いております。
蕎麦つゆに関しては国内の大手メーカーさん、更にはアメリカからもオファーを頂いております。
そば助の歴史はまだスタートしたばかりです。
全国に「命を繋ぐそば助」を作り上げた時が最後のゴングを鳴らすときですね。
取材を終えて
八木社長と出逢ってかれこれ14年になる。
心の底から信用できる人はなかなかいないが、八木社長はその1人である。
順調に店舗展開されている背景に、毎月200万円の赤字が続いていたとは全く知らなかった。
そんな過酷な状態だったのにもかかわらず八木社長は一切辛い顔は見せず笑顔だった。
居酒屋時代は知らなかったが、ダイビングショップ後に色々な事業を手掛けチャレンジされてきた八木社長。
この「そば助」の成功は自分と同じように八木社長の周りの仲間達は心から喜んでいると思う。
そば助が日本、そして世界に浸透して行くのが今から楽しみである。
八木ちゃん!やったね!最高!!!
プロフィール
八木 大助(やぎ・だいすけ)
23歳で独立後、居酒屋を開店。途中から兼業していたダイビングショップも閉店し破産寸前という苦悩を経験。
それを乗り越え東京・稲荷町にそば助をオープンした。
借金をしながらも続々と店舗を拡大し続け、塩そばやごま唐辛子を始め世にない他と違った食べ物を提供し続けている。
苦労した経験から社会貢献にも力を入れており、現在は犬の里親を募集するNPOの副理事長や児童養護施設と手を組み就職受入れなど「命を繋ぐそば助」を目標に活躍している。