日本のラテン音楽に大きく貢献したトロンボーン奏者のスゴい人!

夢は日本一のバンド「東京キューバンボーイズ」に入ること

中学生、自分で戸籍を横浜に移す!

夢のバンドに入団

本日登場するスゴい人は、ラテン界の重鎮と言われるトロンボーン奏者だ。
中学2年で故郷山梨を離れ、ラテン音楽の道を今でも走り続けている。
日本一のラテンのフルバンド、東京キューバンボーイズのコンサートマスターも務めた。
演奏活動を通し、キューバへのチャリティー活動にも積極的に取り組んでいる。
演奏活動歴50年を越す本日のスゴい人は、どんな人生を歩んできたのだろうか?

さあ…
トロンボーン奏者
大高 實様の登場です!

早くに父母を亡くし、叔母に支えられた幼少時代

母は山梨の身延山に生まれ、結婚で横浜に引っ越すも太平洋戦争が始まり、疎開で身延山に戻りました。
その疎開先で僕は生まれました。
昭和20年、戦争が終わり再び横浜に戻りましたが、23年に父が他界。
母は働くために僕を身延山の実家に預けましたが、その3年後、母も他界してしまいました。
和菓子屋だった母の実家に引き取られ、母の姉・叔母に育てていただきました。
叔母は18歳から耳が聞こえず生涯一人でしたが、僕をずっと支えてくれました。

夢は日本一のバンド「東京キューバンボーイズ」に入ること

楽器との出会いは小学校高学年の頃、役所に勤めていた叔父が買ってきてくれたハーモニカやオルガンでした。
どちらも自然と演奏できました。
中学でブラスバンド部に入り、管楽器を始めました。
最初はチューバの一回り小さい「バス」という楽器をやっていたのですが、中学2年になりトロンボーンに空きが出たのでトロンボーンに移りました。
ある日、東京で修行をしてきた和菓子の職人さんが、一生懸命音楽をやっている僕に言いました。
「東京には、東京キューバンボーイズという日本一のバンドがあるんだ。」
日本一!という言葉に魅力を感じ、何もわからないながらそのバンドに入ることが夢になりました。

中学生、自分で戸籍を横浜に移す!

祖父や祖母は僕に和菓子屋をやらせるつもりでいたけれど、僕は音楽をやりたい一心で東京に出る決意をしました。
東京の音楽学校に行って、将来は東京キューバンボーイズに入ろう!と。
中学2年、戸籍を移動するために役所に行きましたが、そこには叔父がいるじゃないですか!
なので、同級生を連れて行って、ちょっと行ってこい!って頼んだりしましたね。
祖父母は反対していたけれど、和菓子屋を実質仕切っていた叔母が応援してくれ、学費や下宿などの費用を出してくれました。
皮肉なもので、耳が聞こえない叔母に世話になっているのに、音楽をやっている僕の気持ちは複雑でした。

内緒でアルバイトをした音楽学校時代

中学2年で横浜の学校に転校しましたが、その学校にはブラスバンド部がなかったんです。
たまたま担任の先生が体育と国語の先生でしたがピアノがとても上手で、教えてくださることになりました。
でも自分はトロンボーンを吹きたいし管楽器で行きたいと、横浜の中学には3か月いただけで東京の音楽学校の付属中学に転校を決めました。
高校に上がり、演奏のアルバイトでクラブやキャバレーに出入りしていました。
学校にバレたら退学という時代。
でもバレてしまって校長室に呼ばれ、理由を聞かれました。
音楽学校の午後は個人練習が多く、練習したくない人はみんな遊んでいる。
それを考えたら、僕は吹いていた方がいいと思ったし、いい楽器も買いたいんです。
校長先生は僕の気持ちを汲んでくれ「誰にも言うなよ」って許してくれました。
大学に行くお金もなく、実践で行こうと、一番仲のいい友達と頑張ることを決めました。

夢のバンドに入団

キャバレーのバンドに入り、演奏を続けました。
行くバンド行くバンド、たまたま僕は一番年下ということもあり、みんなに可愛がってもらいました。
名のあるバンドを経験し、渡辺プロのバンドに3年近く在籍した時、ついにキューバンボーイズからお話がありました。
中学2年の時に入りたい!と思ってから10年後、24歳でした。
渡辺プロの代表も、キューバンボーイズに入ることを応援してくれました。
これまではキャバレーのバンドや歌の伴奏だったので、そのバンド自体が注目されるわけではありませんでした。
しかし東京キューバンボーイズはバンド自体がコンサートをするので、注目度が違いました。
当時は1ヶ月のうち1週間くらいは毎月コンサートツアーをしていました。
大忙しで、楽しくて仕方がない日々でした。

失敗や落胆から救ってくれた“親父”

キューバンボーイズのリーダー見砂さんとウマが合い、メンバーの中で一番近い存在になり、親しみを込めて「親父」と呼んでいました。
キューバンボーイズに入ったばかりの時、リードトロンボーンと僕でアドリブバトルがありました。
僕は小節数を間違えてしまい、背筋が凍り、舞い上がってしまいました。
終わって楽屋に戻ってきて、オヤジに怒鳴り飛ばされると思い謝ると「おお、いい勉強になったろ、おまえ!」の一言、最高の薬でした。
親父と僕が親しい存在だと陰口を叩かれたこともありました。
そんな時も親父や師匠にアドバイスをもらえたので、自分の音楽の道をただただ進むことに集中できました。
早くに亡くなった父母が、親父に出会わせてくれたんだな、と思っています。

日本一のバンド、解散

高度成長期に伴い交通費も値上がりし、フルバンドは20名体制である為、自然と活動が減少して、給与を支払う事さえも厳しくなっていきました。
ついにはリーダー自らが家を売って、メンバーの中南米ツアーの資金を捻出していました。
メンバーを大事にしていた親父は人員整理もせず、これ以上やってもいい音を維持するのは難しいと1980年にキューバンボーイズは解散しました。
その後、僕は歌手の伴奏、スタジオミュージシャンとして生活していました。
1990年に親父が亡くなった時、僕は号泣しながら絶対に親父の遺志を継ぐぞ!と心に決めました。
歌の伴奏もスタジオもいいけれど、ラテンの活動をしなければ!と1992年にラテンバンド「オルケスタ カリビアンブリーズ」を立ち上げました。

花を咲かせた音楽活動

自分はフルバンドで育ってきました。
東京キューバンボーイズの他に、原信夫とシャープス&フラッツという素晴らしいバンドがありました。
そのフルバンドが次々と解散してしまった。
コンピュータでいくらでも音楽が作れる時代ではあるけれど、生音の良さが絶対に必要な時がくると思うのです。
どこまでできるかわからないけれど、みんなの協力を得ながら生音、フルバンドの良さを伝えていきたいと思って活動しています。
今年、横浜開港記念館建築100年、横浜市中区制定90年を記念してフルバンドでのコンサートができました。
意志を継いで続けてきた音楽の種が、今、花を咲かせ始めたね!と僕の生き様を見てきた人がみんな言ってくれています。
本当にありがたいことです。
これからも引き続き、音楽の素晴らしさを伝えていきたいと思います。

取材を終えて

両親を早くに亡くし、親戚に預けられた少年時代の大高さんにとって音楽は、それはそれはとても重要な支えになったという。
子どもの頃に夢見たバンドに入りコンサートマスターをやり遂げ、リーダーの遺志を引き継ぎ、稼ぎの良いスタジオミュージシャンの仕事を減らし、ラテン活動の為に自らバンドを立ち上げた。
音楽に対する純粋な思いと、リーダーに対する感謝の心がなければ、この決断はできないことだろう。
大高さんは演奏以外に指揮も振られるが、その後ろ姿がまた痺れるほどにカッコいい。
是非、本場キューバからも認められたラテン音楽に触れてほしい。

プロフィール

大高 實(おおたか・みのる)
1944年 山梨県出身
13才よりトロンボーンを始め、キジ西村・金田芳一の各氏に師事。
「森岡 康とゲイスターズ」「ブルーソックス」などのビッグバンドを経て、
'68年「見砂直照と東京キューバンボーイズ」に入団。
1974年~1980年の解散までコンサートマスターを勤め、国内は勿論ソビエト、中南米などの公演を成功させ各方面で絶賛をあびる。
解散後は自己のグループを結成、
1982年~1984年、渡辺浩子演出による芸術祭優秀賞受賞作品 ミュージカル「キャバレー」、
1988年~1989年には劇団民藝公演「第2次大戦のジュベイク」(同演出)等に出演。
1991年キューバで行われた「見砂直照追悼コンサート」では同国のプレーヤーと共演し絶賛を博した。
1992年、東京キューバンボーイズ時代の有志等と共にラテングループ「オルケスタ・カリビアンブリーズ」を結成しラテン音楽活動を精力的に展開。
1998年、念願の中南米公演(キューバ、メキシコ)を大成功に収める。
またキューバ国との交流も深く「キューバの子供達に学用品を送る会」を発足、
演奏活動を通し同国へのチャリティー活動も積極的に取り組んでいる。
1999年10月「東京キューバンボーイズ結成50周年記念コンサート」では故 見砂直照に代わり指揮を勤め絶賛を博した。
キューバ関連の執筆活動として「キューバ万華鏡」(海風書房)、「地球の歩き方"カリブ海"」(ダイヤモンド社)がある。

◆オルケスタ・カリビアンブリーズ http://www010.upp.so-net.ne.jp/ocb

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