東洋最大と呼ばれた中島飛行機 技師長 小山悌に初めてスポットを当てたスゴい人!

ニヤけて本を読む友達をバカにしていたら

祖父が米軍キャバレーを経営していたとは!?

中島飛行機と小山悌さんと向き合う日々

中島飛行機を知っている日本人は果たしてどのぐらいいるのだろうか?
日本の戦闘機というと零戦がイメージされ、設計者は映画の影響もあり堀越二郎さんが有名だ。
しかし、アメリカは「零戦」や「隼」は次々と撃墜したが「疾風」だけは苦戦したという。
零戦や隼は一定のスピードを超えると機体にシワが生まれるが、疾風は一切シワが生まれない機体をしていた。
ただ、エンジンの油漏れが激しく、プロペラの性能もまだまだで機体だけがずば抜けていた。
この疾風の機体を設計したのが小山悌である。
戦後、小山悌は口を閉ざし取材にも一切応じなかった為、資料がほとんど無い。
本日登場するのは、ほとんど知られていない小山悌にスポットライトを当て書籍化したスゴい人だ!

さあ…
作家
長島 芳明様の登場です!

友達と話を合わせる事が訓練だった!?

4人兄弟の末っ子で一番上の兄とは6歳違うので、テレビのチャンネル権は全くありませんでした。
学校では前夜放送したアニメがよく話題になるのですが、自分は全く見ていませんでした。
上の兄弟が見ている番組のCMの間だけ自分が見たい番組に切り替えてもらい、その数分だけで前後の内容を想像していました。
この数分を元にして翌日、友達と会話を成り立たせていました。
これが文章を書く想像力のベースになったのかもしれません。

ニヤけて本を読む友達をバカにしていたら

喘息持ちで運動も苦手だったので、休み時間は図書室でよく過ごしていました。
子ども向けの本で「源義経」「ヤマトタケルノミコト」「真田十勇士」を読んだ時、主人公に強く感動しました。
自分も身体が小さく喧嘩をしても負けてしまうので、源義経の様に奇襲攻撃ではないと勝てないと常々思っていたのも影響していたのでしょう。
文学に目覚めたのは15歳前後です。
本をニヤニヤしながら読んでいた友達を気持ち悪く思っていると、「良いから読んでみろ」と渡された作家のエッセイが本当に面白かったのです。
マンガではなく、文章だけで人を笑わせる事ができることに感動しました。
そこから本を意識して読むようになりました。

本を書いてみる

自分は本が好きなのだと気づいたのが18歳くらいで、本を書き始めたのが20歳頃でした。
出版社の文学賞に応募することが小説家になる道だと知って本屋に行き、文章を書くための本や作家になるための本を読み漁りました。
最初に書いたのは50ページ程のホラー小説だったと思います。
約3年前に当時の原稿が出てきたのですが、小学生の作文かと思うレベルでした。
まだ言語化できていないのですが、文章を書くことに関しては何故か続けて来られました。

祖父が米軍キャバレーを経営していたとは!?

毎年8月になると戦争番組が放送されますが、GHQに占領されたシーンを父が見て「子どもの頃は米兵とよく遊んでいた」と言うのでどういう事か質問すると、実は祖父が米軍キャバレーを経営していたというのです。
祖父の弟は商売をして儲けたお金は博打につぎ込み、破産したらまた商売をするという奇天烈な方で、祖父はそんな奇天烈な弟の尻拭いをしていたみたいです。
そして戦後は米軍キャバレーで儲けていたようです。
何故米軍相手かというと、地元・群馬には中島飛行機があり中島飛行機を監視するために進駐してきたのです。

30歳で初めての賞を受賞

祖父が米軍相手のキャバレーを経営していたことには驚いたのですが、世の中にこれをテーマにした作品はない!これは小説のネタになると調べ始めました。
図書館にもろくに資料は無いので、森光子さんや淡谷のり子さんなどの米軍基地での体験談を元に話を膨らませました。
これらを纏め、米軍キャバレーをテーマにした『進駐軍がいた少年時代』を書き上げると第11回講談社Birthを受賞することができました。
父が寿司屋をしていたこともあり、出前先のお客様など近所の人に本を配ると、「太田市のことを書いてくれてありがとう」「群馬県のことを書いてくれてありがとう」という沢山の声を頂いたのです。
群馬県のことを書けばまた読んでくれると思い、群馬の歴史を調べると「新田義貞」と「中島飛行機」がありました。
新田義貞より中島飛行機の方が時代も近いし生存者もいるかもしれないので、資料を集めやすいと思い、小説のテーマに選びました。

中島飛行機と小山悌さんと向き合う日々

実際に調査をし始めると、生存者は数人程度で資料もほとんど残っていませんでした。
中島飛行機を調べていると訪ねてもろくに相手にされず、あなたに話すことは無いと言われたこともありました。
最初は中島飛行機の創業者である中島知久平さんを中心に調べていて、設計者の小山悌さんの情報はあまり出てきませんでした。
ある日、小山さんの情報がほとんど残っていないと、師事している人に話したら、その席にいた人が「俺の同僚に小山さんの甥っ子がいる。彼の結婚式で小山さんを見たことがある」と言うのです。
勇気を出して連絡先を教えてもらい取材の申し込みをしました。
小山さんのご子息は基本的に取材NGなのですが、親戚からの紹介だから取材に応じてくれたようです。
手探りしながら情報を集め、取材執筆に3年、出版社探しに4年かかりました。
でも、この4年の間にも色々な人と出逢うことができたので、最初の完成を100とすると1200ぐらいの出来栄えになりました。

銀翼のアルチザン

最初、講談社さんに持ち込んだのですが断られてしまいました。
その時は中島知久平さんが主役でした。
どうしたら良いか考え新しい作品を書き新人賞を取れば、「中島飛行機という作品もありまして」と出版社の人に話そうと思っていましたが、どこまで行っても途中落選止まり。
創作のヒントになると思い、映画館で「風立ちぬ」を見たら、技術者の視点で作品を書けば面白いものになるのでは!と閃き、主役を小山さんにして書き直しました。
そして、色々と調べていると著作権エージェントという仕事を見つけたのです。
ネット検索しアップルシード・エージェンシーさんと出逢いました。
同社の鬼塚社長から「ここまで調べているなら小説ではなくノンフィクションにしてはどうか」とアドバイスを頂きました。
ノンフィクションとした場合、主人公の小山さんにスポットを当てても具体的な人間性の資料が乏しいので100枚以下になってしまう。
そこで、テストパイロットの方々のエピソードも加えていきました。
書いていくうちに、何があっても諦めない心と、戦後愚痴の一つも言わず口を閉ざした潔さを兼ね備えた小山さんにどんどん惹かれていきました。
本のタイトルは「銀翼のイカロス」にしようと思っていたのですが半沢直樹シリーズで出されたので諦めました。
小山さんは最初、フランス人に指導を受けていたので、フランス語で「職人」を調べたら「アルチザン」と出てきました。
更に、アルチザンとは「技術的には熟練し精巧な腕を発揮しながらも、芸術的感動に乏しい作品を作る人々を批判的にいう言葉。しかし、いわゆる「職人芸」を見直す気運が高まるにつれ、この語自体の評価軸も変化がみられる」とあったのでまさに小山さんの生き様にあっていると思い「銀翼のアルチザン」としました。
そして、自分が本を出すことで小山さんや中島飛行機への評価軸が変わるなら大変うれしく思います。

取材を終えて

アップルシード・エージェンシーの鬼塚社長から「日刊スゴい人に推薦したい人がいるから早めに事務所に来られないか」とご連絡を頂き、発売されたばかりの「銀翼のアルチザン」を手渡された。
自分も小山悌さんという設計士は知らなかった。
しかし、GHQ内で一番有名な設計士は小山さんだという。
この本を書かれた長島さんはきっとご年配の方だと勝手に想像していたら、まだ30代半ばであった。
中島飛行機との出逢いから、小山さんの親戚の同僚と出会い、本のタイトルまで、まるで運命という糸に導かれるように本を書き上げていると思えた。
そして、多くの書籍評論家が高い評価をされている。
出版社は角川書店なので「永遠の0」の様に是非、映画化して欲しい。
ちなみに中島飛行機はその後、色々な会社に解体されたが、その一つは富士重工業株式会社である。
更に、中島飛行機創業から100年の節目となる2017年、富士重工業株式会社は株式会社SUBARUと社名変更した。

プロフィール

長島 芳明(ながしま・よしあき)

「銀翼のアルチザン」http://amzn.to/2vMhzYf

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