日本人初の快挙「International Bartender of the Year」に選ばれたスゴい人!

お客様のアドバイスに純粋に従う

NYでのバイトは1日15ドル

ドラマのようなワンシーン

本日登場するスゴイ人は、日本人で初めて「International Bartender of the Year 2017」に輝いた!
バーテンダーに夢を与え続け、世界各国にゲストバーテンダーとして出演している。
恐らく今日のスゴい人は世界中のバーテンダーの中で一番有名な日本人であるはずだ!
彼のドラマチックすぎる人生を聞かせてもらおう。

さあ…
バーテンダー
後閑 信吾様の登場です!

決められた将来

小さい頃からコーラとファンタを混ぜたりして遊んでいました。
父親が工場を経営しており、将来は会社を継ぐものとして育てられてきました。
遊ぶお金は自分で稼ぎたくて15歳からアルバイトはしていて、大学受験を控えた18歳になると将来に役立つバイトをしたいと思いシェフ、パティシエ、バーテンダーを候補に選びました。
最初にケーキ屋さんに面接に行くのですが見た目も言葉遣いもあまり良くなかったせいか面接に落ち、求人広告で見つけたダイニングバーの面接で合格したので働き始めました。
カクテルを作るのが楽しくて少しずつのめり込んでいきました。
更にスキルを追求したいと思い、昼間はバーテンダースクールに通い、夜はバーテンダーの仕事をしていました。

お客様のアドバイスに純粋に従う

21歳の時、お客様に「君アメリカに行ったら成功すると思うよ!」と言われました。
バーテンダーの先輩達に相談しましたが、「アメリカに行っても意味がない」と言われ反対されました。
ただ、僕は何を持って世界一かわからないけれど、世界一と呼ばれるNYで1番になったら世界一になれるんじゃないかと思ったのです。
英語は全く話せませんでした。
丸腰で行くより何か武器を持って行こうと思い、日本のおもてなし文化に通じる茶道教室に通いました。
当時、シェリー酒の扱いはソムリエのアイテムでもあり、バーテンダーのアイテムでもありどっち付かずな感じでした。
誰も手を付けていなかったシェリー酒を知るため1ヶ月スペインに行き50箇所ぐらいあるシェリーの蔵を周り勉強しました。

NYでのバイトは1日15ドル

NYでは日系のBARで有名な「Angel’s Share」に面接を受けに行きましたが、英語が話せなかったので断られ、知人の紹介で日本食レストランのバーテンダーとして働きました。
バイト代は1日15ドル。
毎日ベーグルのプレーンしか食べられない生活でした。
半年後、「Angel’s Share」のマネージャーから働かないかと声をかけられ移ったのですが、話を聞くと元々いたバーテンダー達が独立することもあり後釜を探していたのです。
その後、「Angel’s Share」のヘッドバーテンダーとしてお店を任せられるようになりました。
全く休みもなく厳しい環境の中、とにかくがむしゃらに働き続けました。

初めての世界大会

2010年に次世代の新しいカクテルを作るバカルディレガシーの大会に出場したのですが、負けてしまいました。
その後、バカルディ社から動画撮影の依頼を受け撮影中、その年の世界チャンピオンに僕が作ったカクテルを出すと「君が出てきたら、俺は勝てなかった」と言われたのです。
そこで、もう一度大会への意欲が湧きました。
2012年招待状を取得し、アメリカの代表に選ばれ、世界大会に出場しました。
26か国から選ばれた優勝者が出場する厳しい大会です。
カクテルを作るだけではなく、英語でのプレゼンテーションも必要となり、世界のレベルは非常に高かったです。
決勝の8名に残り、緊張して眠れませんでした。
セミファイナル終了後に審査員から各選手にアドバイスがあるのですが、僕へのアドバイスは「Just be your self」でした。

ドラマのようなワンシーン

10分の間にステージにセットし、カクテルを作り、プレゼンテーションをして後片付けをするのです。
プレゼンテーションでは、世界一になる為にNYに来た覚悟、既に6年間も我武者羅に挑戦していて、震災後も日本にいる家族と会えていない話をしていました。
これまでのNYでの生活が走馬灯のように蘇り、感極まり思わずステージで涙を流していました。
観客の中にも涙を流す人達が沢山見えました。
残り1分でようやくシェーカーを振りはじめ全ての想いをシェーカーに込めてグラスに注ぎました。
もう片付けする時間はないなと思っていまいた。
すると会場からざわめきが聞こえてきたのです。
振り返るとライバルの選手たちが全員で僕の片付けを終えてくれていたのです。
何が起こったのか分からず、あまりの驚きで言葉を失いました。
時間を見ると残り15秒。間に合った。
その時、会場から湧き上がる大歓声とスタンディングオベーションに涙が止まりませんでした。
選手みんなに御礼を言いに行くと「お前も逆だったら、同じ事をしたよ」と言われたのです。
そして優勝のアナウンスは「From New York Shingo Gokan!」
ただ、他の選手の助けを借りて手にした優勝なので、通常ありえないことですが皆の愛が込められた優勝となりました。
この時に作ったカクテルは抹茶とバカルディラムを茶碗に入れ、茶筅で立てた上にシェリーを加えたカクテル。
自分が勉強してきた、全部の集大成のカクテル「Speak Low」でした。

世間の評価での1番を目指す

優勝後は世界中からオファーが殺到し、ゲストバーテンダーとしてセミナーを開催するようになりました。
ほとんどお店には入れないスケジュールです。
ある時、毎年2万人が集まるカクテルの祭典で世界のバー業界のアカデミー賞といわれる「Tales of the Cocktail」授賞式に招待されました。
これはBAR関係者が決める祭典なのです。
自分の意思でエントリーして手にするものではなく、あくまでも周りの評価のみで選ばれるのです。
次の目標はいつか「Tales of the Cocktail」のステージに立つことに変わりました。
2014年、上海に自分のカクテルの名前を付けたお店「Speak Low」をオープンし、アジアNo.1を狙い始めました。
その3年後「Speak Low」は Asia’s 50 BEST bar, 2位に選ばれました。
NYの「Angel’s Share」は世界34位にランクイン。
そして今年の2月には世界各地の仲間達に声を掛け、上海に2店舗目をオープンしました。
そして、記念すべき「Tales of the Cocktail」の15周年の今年、5年かかりましたがInternational Bartender of the year を受賞しました。つい2週間前に表彰されたばかりです。
これまで以上に世界中からセミナーやコンサルティングの仕事依頼が増えました。
名誉ある賞を受賞したからには、人としてもこの賞に恥じぬような生き方をして行きたいです。
バーテンダーの更なる地位向上を目指し、仲間達と共に次の目標に向かって新しい事にどんどん取り組んでいきたいです。

取材を終えて

インターネットにある幾つかの記事に目を通してからお会いしたのですが、International Bartender of the Year 2017で優勝されていたとは知りませんでした。
後閑さんは自ら信じた道を常に切り拓いて来られた。
きっと日本にいるBAR業界の人達からしたら、いきなり世界一を取ったに近い印象なのだろう。
後閑さんの様に自らの道を切り拓く意思の強い生き方を目指す若者が沢山、日本から出てきて欲しいと思った。
BAR業界だけでなく多くの人に、チャレンジする苦しさと、その後にやってくる喜びの大きさの話をして欲しい。
ドキュメント映像を何処かが作成したら、また改めて触れてみたい魅力的な人であった。

プロフィール

後閑 信吾(ごかん・しんご)
“Speak Low”(上海) & ”Sober Company”(上海) ファウンダー世界で最も知られている日本人バーテンダー。バーテンダーの仕事以外にも、コンペティションジャッジ、バーコンサルタント、
レストランプロデュース、セミナー講師など多岐に渡り活躍。「Bacardi Legacy Cocktail Competition 2012」(バカルディ・レガシー・カクテルコンペテション)
総合優勝(世界No.1)の地位を獲得。その後、ロンドンのThe American Bar(The Savoy Hotel) でのゲストバーテンディングをはじめ、日本を含む世界40以上の都市でゲストバーテンダーとして活躍。海外TVメディアなどの出演も多い。
2014年に「Speak Low Shanghai」(上海)をオープン、2016年には「Asia’s 50 Best Bars」でアジア第2位を獲得するなど、その手腕は折り紙つき。
2017年2月に「Sober Company」(上海)をオープンし、同年「Tales of the Cocktail」にて「International Bartender of the year」 を受賞。ニューヨーク在住。

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