運命を変えたアルバイト
団体設立4年で会員数600人に
Barの未来を紡ぐ
本日登場するスゴい人は、フレア・バーデンダーの先駆者で数々の大会でグランプリを獲得してきた。
枠にはまらない表現力を持ち、バー業界で革命を起こしてきた一人と言っても過言ではない。
今の日本のフレア・バーテンディングがあるのは、彼がいたからだろう。
しかし順風満帆な日々ばかりではなかった。
心が傷つき、海外に逃げたこともあった。
今ではバーの将来を担う一人として多岐にわたる活動をしている。
彼のバーテンダーとしての生き方を見てみよう。
さあ…
全日本フレア・バーテンダーズ協会 名誉会長
北條 智之様の登場です!
好奇心旺盛、美術が得意
小さい頃から好奇心旺盛、興味があるものを追いかけて親の元から離れ、探されることが多々ありました。
小学生の頃から美術が得意で、高校では授業中に描いた絵を認められ、美術部に勧誘されました。
大会に向けた絵を描くためだけに美術部に入り、高校3年で「学展」という大会のデザイン部門でグランプリを取りました。
技術的に上手い人はたくさんいましたが、デザイン画なので絵のうまさではなく発想だけで選ばれたと思うんです。
美術で大学への推薦もありましたが興味がなく、親からもせっかくの才能を捨てるのはもったいないと言われ、美術系の専門学校へ行くことになりました。
運命を変えたアルバイト
学生時代、近くのスーパーでアルバイトを始めました。
コーヒー売り場の担当でしたが、隣のお酒売り場の人手が足りずに手伝うようになりました。
次第にお酒の売り場の仕事が増え、お客様からの質問も多くなりましたが答えられず。
「売り場の子がわからないんじゃしょうがないね」と言われ、悔しくなった僕はカクテルブックを買って勉強するようになりました。
一気にカクテルにハマり、お客様に色々な飲み方を説明でき、お酒の売上もどんどん伸びました。
バーにも通い始め、最初はお会計の仕方さえ分からなかったのですが、他のお客さんを見て学んだり。
バブルの影響もあり、調べて訪問した名店は全てすごい行列でした。
バーテンダーって儲かるんだな、と興味は増すばかり。
バーテンダーをしながら専門学校に通い卒業したけれど、やはり興味があったバーテンダーの道に進むことに決めました。
出会いとご縁
高校卒業後、同級生のお父さんがマスターをされていた「バー・ピガール」でアルバイトを始めました。
ピガールは、初めて買ったカクテルブックの『日本のBAR100選』に掲載されていたお店。
更にその著者である上田和男さんは、マスターの修業時代の後輩だったのです。
ピガールで2年ちょっと働いたのち、マスターの推薦で、かつてマスターと上田さんが修業していた東京會舘で働けることになり、本格的な修業が始まりました。
あくまで「自己流」を突き通す
東京會舘に入ったばかりの時には大会に出たいという思いが強く、日本バーテンダー協会主催の大会(25歳以下のジュニア部門)に出させてもらいました。
周りに協会に所属している人がいなかったので自己流で挑戦。
とにかく目立ってやろう、変わったことをやろうと、常に自己流でチャレンジし続けました。
シェイカーを人一倍高いところで振る、その当時は全くなかったフレッシュフルーツをつぶしてカクテルを作るなど。
結果は言うまでもなく、基準から全て外れていたので散々でした。
こうやれば勝てる!ということは重々わかっていたんです。
でも、型にはめればいいってもんじゃない!僕は絶対自分のやり方でやる!自分が納得いくことをやりたい!と、ずっとブレずに思い続けていました。
フレアとの出会い
1988年の映画『カクテル』をテレビで見てフレアを知りました。
本格的にフレアを始めたのはバーテンダーを始めた92年から5年後。
世界大会では幾つか部門があって、その中にお客様を楽しませてカクテルを作るフリースタイル部門がありました。
そこでフレアで世界チャンピオンになった韓国人がいて、すごい!会いたい!と思って韓国に行きました。
会うだけのつもりでしたが、幾つかの技を教えて頂きました。
東京會舘に勤めながら、96年にオープンした横浜のマルソウというバーのバイトも始めました。
ピガールのマスターがマルソウの統括マネージャーを務めていたので、師匠からの指令でお手伝いに行くことになったのです。
オープンしたてのマルソウはなかなか盛り上がらず、1年後に僕がフレアを始めると次第に話題になり、売上も3倍くらいになりました。
98年にリベンジした大会で優勝した「ライディーン」という僕のシグネチャーカクテルは、今はマルソウの看板メニューになっています。
団体設立4年で会員数600人に
99年にフレアを行うアメリカのチェーン店が日本に入ってきました。
フレアの店がうちだけではなくなる危機感。
自分の他にフレアをやっている人がいることも知り、情報交換を始めました。
アメリカのチェーン店のフレアのトップ・久保田さん、そして僕が韓国人に教わってきた後に同じように教わってきた大阪の石川さんと共に2000年8月1日、フレアの団体を作りました。
最初は3人でしたが、1年後には80人、2年後には150人、3年後には300人、4年後には600人にもなりました。
目立つ人達が新しい団体を立ち上げてどんどん勢力を伸ばし始めると、出る杭は打たれるという様に色々と言われ、悩みが増えていきました。
ニューカレドニアで心の傷を癒す
マルソウのフレアショーを見て下さったお客様が、ニューカレドニアでショーをやってくれないかと訪ねてきました。
他団体からの圧力の日々に疲れ果てていた僕はしばらく休みたいと、ニューカレドニアに行くことを決めました。
昼間はビーチのバー、夜はホテルのバーで働き、気持ちは嫌な事からずっと逃げている状態でした。
でも自分が立ち上げた団体を放ってきてしまったのが気がかりで、仲間と連絡は取っていました。
ニューカレドニアで毎日海を見ていたら、自分が考え悩んでいることが小さく感じ、1ヶ月経った頃日本に帰る決意をしました。
帰国し、組織の強化、自分のフレアももっと磨き上げよう、自分の道を信じていこう!と決めました。
Barの未来を紡ぐ
40歳を前に独立したいと思っていて、2013年から自分の店を始めました。
いろいろな団体を作り代表をしてきましたが、どこにも所属しない団体として全日本フレア・バーテンダー協会を作りました。
今までずっと先頭に立って走ってきましたが、昨年8月に会長を引退。
今後はフレアだけでなく、日本のバー全体のことや自分のお店もしっかりやりたいと思っています。
厚生労働省の調べに、日本人がお酒を飲まなくなってきているというデータがあります。
そんな中でどうやってバーを盛り上げていくか。
フレアだけでなく、新しいジャンルのミクソロジー、ノンアルコールカクテル、アロマや医療の方面からもバーを盛り上げたいです。
健康ブーム、ノンアルコール、ミックスドリンクを結びつけ、さらに新しいバーの世界を展開していきたいと思っています。
取材を終えて・・・
アルコール離れが始まりBarだけでなく居酒屋業界も大変な日本。
そんな中、北條さんはフレッシュフルーツや野菜、ハーブなど自由に組み合わせるミクソロジーカクテルにも果敢にチャレンジしている。
ミクソロジーカクテルはまだ日本に定着していないが、海外セレブに注目されているカクテルである。
店内には様々な花から抽出したエキスが沢山保存されていた。
香りが精神に影響している事は科学的にわかっているが、北條さんは医療機関と連携して分析研究も進めているという。
新しいミクソロジーカクテルに興味を持ってもらい、また多くの人にBARに足を運んでもらう仕掛けをされている。
プロフィール
北條 智之(ほうじょう・ともゆき)
全日本フレア・バーテンダーズ協会名誉会長
アジア・バーテンダーズ協会相談役
ワールド・フレア協会 認定世界大会公式審査員(WFAグランド・スラム・ジャッジ)
バーテンダーは1992年から、フレアでの大会デビューは1997年、世界大会デビューは2000年で、大会優勝歴は国内外で13回。
バーテンダーの競技審査員は22ヶ国400回以上(2015年9月)
2013年10月に「Cocktail Bar Nemanja」を関内・相生町一丁目にオープン。
国内外で多数のカクテル講座の講師を務め、2014年には「第17回日本アロマセラピー学会学術総会」にてミクソロジー・カクテル・セミナー、2015年の18回では薬膳ボタニカル・カクテルの講師を務める。
◆お店【Cocktail Bar Nemanja】 https://www.bar-nemanja.com