人工透析をせず10年以上も活躍し続ける博士号を持ったヴァイオリニストのスゴい人!

二人三脚でひたすら道なき道を進む

心が身体を動かす不思議

病気を通じて手に入れたモノ

今回登場するスゴい人は、医師から人工透析を勧められるがそれを拒否し、10年以上もヴァイオリンを弾き続けているスゴい人!
文革期の中国では非常に珍しかったヴァイオリンを7歳で始め、中国の音楽大学へ進んだ後に日本に移住。
東京藝術大学で音楽博士号も取得し、国内外でヴァイオリンの演奏活動を行っている。
慢性腎臓病と診断され、医師からは人工透析を勧められたが、演奏できなくなるためこれを拒否。
食事療法を始め10年以上も元気で活動されている。
一般の人は医師からの勧めには素直に従うが、彼女は自分の道を自分自身で切り拓いて行った。
そして病気と付き合う上で一番大切なものを発見した。

さあ…
ヴァイオリニスト 音楽博士
劉 薇様の登場です!

ヴァイオリンと出会うきっかけ

1963年に中国で生まれました。
父は音楽家になりたいほど音楽が好きでした。
当時は文化大革命の時代、毛沢東の思想改造で多くの青年が農村へ行き、都会に戻れませんでした。
父は子どもに特技を身につけさせれば、それを避けられると考えたのです。
西洋文化は拒否されていましたが、父は西洋へ憧れを抱いていました。
そして西洋楽器の中でも難しいヴァイオリンを選び、私に習わせたのです。
初めて手にしたのは7歳の頃です。
近くでヴァイオリンは売っておらず、父が列車に乗って買ってきてくれたのが大人のヴァイオリン。
子どもの私には大きかったので、父はノコギリなどを使い子どもサイズに改造してくれました。

嫌いから好きへ

最初の先生は趣味でヴァイオリンを弾いている近所の人でしたが、すぐにその方は教える事がなくなり、次に紹介してくれたのは列車で片道3時間かかる所にいる先生でした。
人が溢れ、到底乗れそうもない列車だけど乗らないとレッスンに行けないので、必死でした。
窓際の知らない人にヴァイオリンを渡し、自分はドアから乗り込んで大人をかき分けヴァイオリンを受け取りに行くのです。
当時は練習が辛くてヴァイオリンが大嫌いでした。
父はよく家にお客様を招く人でしたので、お客様の前で弾くことが多く、拍手や褒め言葉を貰うことは嬉しかったです。
幼い頃から人前で弾くのが当たり前だったせいか、大人になっても「舞台に強いね」とよく言われます。

二人三脚でひたすら道なき道を進む

整った環境での英才教育ではなく、父と二人で二人三脚、常に先は暗い状況でした。
だけど脇目を振らず「ひたすら目の前の事に集中」できた事は良かったかもしれません。
楽譜は売っていないので、誰が持っていると噂を聞いては借りて、写して返す。
半年かけて一冊を習うと、次のレベルの楽譜の持ち主を探して、その人の門をたたきました。
その繰り返しが何年も続きました。
そのうちに父が改造したヴァイオリンが小さくなり、大人のヴァイオリンを買うためにまた知り合いを辿ってお古のヴァイオリンを譲ってもらいました。
新しい楽譜がなかなか手に入らないので、同じ曲をとにかく繰り返し練習しました。

大学、そして日本と繋がる

中国の文化大革命の後、私は音大付属の高校を受けましたが、手が小さいとの理由で不合格でした。
翌年、一般大学へ行くべきか迷いもありましたが、音大へ行きました。
大学の同級生は24人、うちヴァイオリンはたったの2人。
中国の音楽大学は受け入れる学生が少ないのです。
代わりに卒業後は保証されるので、私も大学3年生で同音楽大学のヴァイオリン教師に内定が決まっていました。
卒業後は母校の音楽大学でヴァイオリン講師になりました。
政治改革があり、やっと外国へ行けるようになって、音楽の友好訪問で初来日しました。
1986年桐朋学園大学に留学後、東京藝術大学大学院修士課程3年、博士課程7年を経て、日本のヴァイオリン演奏分野では数少ない博士号を東京藝術大学より授与されました。
来日した80年代は、日本は高度経済成長期で、世界のハイレベルな音楽に接する機会が多かったです。

病気になり選んだ療法

2005年に慢性腎臓病と診断されました。
医師からは人工透析が必要と言われましたが、他に道は無いのかと疑問に思ったのです。
これまで自分でどんな困難も乗り越えて来たので、何もせずに従うことができなかったのです。
身体は食から作られるので、雑穀を使った食事療法に取り組みました。
何か実践している先人がいると思って、本は200冊ほど読みました。
私の病気に直接関係ない本、自然治癒力の本も沢山読みました。
道は誰かが示していても、自分で確かめて歩かなければ自分の道とは言えません。
今、道が見えなくても必ずどこかにあるし、探るほかありません。

心が身体を動かす不思議

毎日悩んでいた時、心も病気になって歩けず、演奏せず寝込んだこともあります。
その時は、ヴァイオリンを弾いたら信じられないほど下手で、音が出ないのです。
以前のような演奏ができるとは到底思えず、自信を喪失しました。
腎移植の手術を受ける決心をしたのですが、手術する手配もできたのに、手術せずに帰ってしまったのです。
理由は、普段から舞台でのコンデイションを維持するにも必死なのに、手術した後で良い演奏が出来るか自問自答した時に、体力がどのくらい戻るかもわからない中、同じ演奏はできないと思ったからです。
ただ不思議なことにこの後、心が開き直り、体調は良くなっていくのです。
全ては音楽を通じて客観視することで救われていきました。
もちろん数値的に良くなったわけではないですが、気持ちが身体に影響している事を体感したのです。
今でも私の状態は普通の人なら仕事ができない状態だと言われていますが、体が辛くても心の力で持ち直すのです。
耳が聞こえない世界でも素晴らしい音楽を作ったベートーヴェンにも励まされ、ヴァイオリン・ソナタ10曲を弾き始めたりしました。
音楽と向き合うことで、気づきと共に力もいただきました。

病気を通じて手に入れたモノ

今でも医者には元気そうだねと驚かれます。
どんなことにも「きっと大丈夫なんだろう」という思いを持って取り組んでいます。
今は病院に行っても薬を飲んでいません。
食事療法は雑穀と野菜中心です。心の状態がよくなりますね。
これまで色々考えましたが、病気は治すのではなく治まるのです。
一度なった病気は治せないので、進行させてしまうのか、もしくは治めるかです。
以前はガラスのような音色だと言われていたのですが、今は太くて温かみのある音だと言われます。
NHKで特集された私のドキュメント番組を観たアメリカ人から、腎臓を提供したいとメールが届きました。
私の人生が海を超えて人の心を動かした事に感動しました。
音は耳で聴くものですが、ハートに届き人を動かしてしまうのが音楽の力です。
病気をした事で自分らしいリズムを取り戻すことができました。
これからも困難があったら自らの手で道を切り拓く人生を選ぶでしょう。

取材を終えて・・・

劉さんが玄関まで出迎えてくれたのですが、一見すると顔色もよく表情も明るく全く病気をされている方だとは思えなかった。
幼い頃、劉さんの何でもやり抜く性格をお父様が見抜き、楽器のなかで一番難しいと言われるヴァイオリンを習わせたのは、親の愛と共に客観的な思考バランスによるのだろう。
とは言え、日本でヴァイオリンをスタートするのとは違い常に手探り状態。
親子二人で作り上げていった苦労は尋常ではない。
ただ、この経験をされたからこそ、病気に対しても自らの力で切り拓かないと納得出来なかった劉さんがいる。
今の医学でも心は病から(プラッシーボ効果)という事は最初に学ぶそうだが、どうしても心は置き去りにされてしまっている。
人はいつか死ぬのだが、心豊かに自らの人生は切り拓いて行きたい。


プロフィール

劉 薇(りゅう・うぇい)
中国西北部の蘭州に生まれる。
7歳の時にヴァイオリンを始め、西安音楽学院卒業後来日。
桐朋学園大学音楽学部に留学後、東京芸術大学大学院修士課程、博士課程を修了する。
2005年に慢性腎臓病を発症。
人工透析をすると演奏活動をやめることになるとわかり、雑穀と野菜中心の食事療法を始める。
現在はコンサートなど国内外での演奏を中心に活動する。

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