小学5年生からアスリートの道へ
IT業界で一番、ITに興味がない男
ドキュサインのテクノロジーは日本の文化を変える
世界188か国、30万社、2億人が使用しているサービス“DocuSign🄬”
サービスを利用することで、いつでも、どこでも、どの端末からでも安心してドキュメントの作成、送付、署名、承認、管理が可能になる。
そのため、簡単で迅速かつ安全な方法でドキュメントの承認や意思決定をデジタル化でき、ビジネスの進め方を変革している。
本日登場するのは、その日本法人の代表と米国本社のヴァイスプレジデントを務めるスゴい人。
彼は小学生から22歳までアスリートとして活躍し、ビジネスマンになってからは数々のIT企業で成功を収めてきた。
その軌跡を見てみよう。
さあ…
ドキュサイン・ジャパン株式会社
代表取締役社長 兼 米国本社ヴァイスプレジデント
小枝逸人様の登場です!
1年後に出場した大会で優勝
北海道の釧路で生まれ、小学校3年生の頃に旭川に引っ越しました。
同じクラスにスキー場の息子がいて、誘われて初めてスキーをしました。
彼はすごく上手で全国的にも有名な選手だったのですが、僕は何もできず悔しくて、それから毎日スキー場に通いました。
スキーのチームに入って、4年生のシーズンの終わりに、大会に出場しました。
あまり裕福ではなかったのでウェアなどは彼から借りて出たのですが、彼に勝って優勝してしまって。村八分に遭いましたね(笑)
小学5年生からアスリートの道へ
そこから僕のスキー人生が始まりました。
5年生でメーカーのスポンサーがつき、数々の地域大会で上位入賞。
中学校1年生の全道中学生大会では、最後から数番目の181番スタートで、僕が滑る頃には優勝者が決まりインタビューも終わっていました。
ところが僕は、当時世界ジュニア選手権でも優勝していた、その優勝者の記録を抜いて優勝したのです。
全国大会でも、2位か3位くらいには入っていたと思います。
その頃までに大きく影響を受けたのは、両親とコーチ、そしてスポンサーでした。
両親は最初、個人スポーツはダメだと猛反対していましたが、僕がやると決めると全面的に協力してくれました。
14歳で全日本のチームに入り、大人の大会でもTOP10には入っていました。
中学時代は海外に遠征して、W杯などにも出場。
中学卒業後アメリカに留学し、20歳までアメリカを拠点にレースに出続けました。
17、18歳の頃には年齢別の世界ランキングで7位になりました。
20歳で帰国した時は、引退しようと思っていました。
大人になって生活するために、社会に出て、資金力がずっと続くライフスタイルを作らなきゃいけないと思っていました。
その時、日本大学スキー部の監督であり、経営者、日本オリンピック協会(JOC)会長でもあった八木祐四郎さんから「小枝、引退するな。日大が弱くなってきているから、私の会社で社員をしながら日大に通いなさい。チームを勝たせてくれ」と言われ、ありがたくお受けしました。
大学入学から2年間、3種目全大会で優勝しました。
アスリートからビジネスマンへの転向
しかし22歳の4月1日に、スキーで複雑骨折をしてしまいました。
人生で一番の挫折です。
復帰には最低でも1年かかるので、いいチャンスだと考え、引退を決意しました。
落ち込んだし悩んだけれど、決めたらやるしかありません。
八木さんに「何でもいいから仕事をさせてください」と言って東京美装の総務部に入り、それから12年間勤めました。
新しい人生なので、過去のことは捨てないといけない。
だけど、上司に鼻で使われたり、上司が仕事を押し付けて飲みに行ったり、麻雀をしたりしているのが許せなかった。
変なプライドもあったし、皆でやるならいいけれど、途中までやって「ここまでやりました。あとはご自分でやってください」と返したりもしていました。尖っていましたね。
長年勤めて頭角が出てきて、英語を活かしたい、挑戦したいという想いが強くなっていって。
東京美装の上場後外国資本が入ってきて、外国の人たちの部門に転籍になり、上司にも恵まれ、大切なことを学びました。
けがは最大の挫折でしたが、今は最大の転機だったとも思います。
あの時八木さんにお世話になっていなかったら、今の僕はありません。
IT業界に入り経験した、成功と挫折
声がかかり、何もわからないまま、IT業界に入りました。
モバイルインターネットなどを作っているテクノロジーの会社で、世界一大きい契約をとることができました。
他の人は製品のすごさを説明していましたが、ビジネスを上手く動かすためにテクノロジーを使うのです。
大事なのは、このテクノロジーを使うと便利、会社の業績がこれだけ上がる、コストがこれだけ下がるなど、どんな結果を生むのかということ。
前職でコンサルのような営業をしていたのが活きたのだと思います。
ただ、その会社は最終的にパワハラでギブアップしました。
すごくいい成績を収めて、当時の社長から新会社を一緒に立ち上げようと誘われました。
周りの人は「絶対に行かない方がいい」と止めましたが、僕は学ぶ事がたくさんあると思いついていきました。
しかし、部下の失敗は部下のせい、部下の成功は自分のものにする上司で、精神的にきつい経験をして退職。
精神的に病んでしまったので、振り返らず、回復して次に進むことを選びました。
同時に、自分は社員には絶対にそんなことをしないと思いました。
IT業界で一番、ITに興味がない男
それからはIT業界で営業、営業管理職、社長、アジアの社長などをしてきました。
僕はIT業界で一番、ITに興味がない男です。
世の中や企業、お客様が良くなることにしか興味がない。
僕がいた会社は、新しいものを日本に持ち込み、ライフスタイルを変える会社でした。
日本に何十年もある既存のIT会社に、新参者として挑んで抜く競争も楽しかった。
前職ではサイバーセキュリティなどを売っていて、社長就任の時に3年で1位になると言い、世界シェアNo. 1の会社に挑み、本当に1位になりました。
日本で大成功してアジアも全部任され、上場するときにはニューヨークの証券取引所で鐘を鳴らしました。
本当に大変だったけれど、一生の思い出です。
他の人はできない経験をでき、社会人として大きな成功の布石を打つことができました。
ドキュサインのテクノロジーは日本の文化を変える
2015年11月、ドキュサインの日本法人初代社長兼本国のヴァイスプレジデントに就任しました。
ドキュサインは前の会社でもユーザーとして利用していて、便利だと思っていました。
なぜこの会社に勤めたかというと、紙やハンコといった文化は、日本に何百年も続いている歴史であり、だから日本は仕事が長い・遅い・非効率だと言われます。
ドキュサインのテクノロジーは、文化を変えられると思ったのです。
テクノロジーはライフスタイルを変えると思っていたけれど、文化を変えられるテクノロジーなんて滅多にないと思います。
アスリートの経験を活かし、若者にチャンスを
アスリートは目標がすごくクリアで、勝つ人は更にクリアです。
ビジネスも同じで、クリアで強い目標をみんなが持っている企業は強いです。
色々な国を回っていて、年をとればとるほど、日本の良さを感じます。
今後は、テクノロジーを活用して、日本のいい文化を世界に発信したい。
また、アスリートからビジネスマンなって成功した経験があるので、スポーツを真剣にやっていた人や、家庭の事情でちゃんと勉強をできなかった、学校に行けなかった人たちに社会で活躍するチャンスを与えられる仕組みを作りたいと思っています。
取材を終えて・・・
10歳から22歳のスキーのアスリートとしての人生と、22歳から現在までのビジネスマンとしての人生、転機にはコーチや八木さんなど必ずキーパーソンがいて、その方々がいなければ今はないと仰っていたのが印象的でした。
けがによる競技からの引退を挫折であり転機と仰っていましたが、そう言えるのは、悩みながらもご自身で決断し、新たな道で目標を持って取り組み、活躍されたからでしょう。
クリアな目標を持つことの大切さを感じました。
また、日本に紙とハンコの文化が深く根付いているのは、普段仕事をしながらも感じることですが、ドキュサインのテクノロジーが日本の文化を変え、仕事の効率が圧倒的に向上する未来が楽しみです。
プロフィール
小枝逸人(こえだ・はやと)
ドキュサイン・ジャパン株式会社 代表取締役社長 兼 米国本社ヴァイスプレジデント
83年から9年間、全日本スキー連盟ナショナルチームのアルペン競技選手として活躍。
日本オープンウェーブシステムズ、デル株式会社を経て、モーティブジャパン株式会社で代表取締役社長を務める。
A10ネットワークス株式会社では代表取締役社長兼CEOアジアパシフィックジャパン ヴァイスプレジデントを務めた。
2015年11月、ドキュサイン(DocuSign(R))の日本進出に伴い日本法人ドキュサイン・ジャパン株式会社の代表取締役社長兼米国本社ヴァイスプレジデントに任命。
日本市場におけるドキュサインの立ち上げ、事業展開、長期成長を主導する。
◆ドキュサイン
https://www.docusign.jp/