日本最大の振付師コンテスト「LEGEND TOKYO」で大会最多の三冠を受賞したスゴい人!

ちゃっかり者だった幼少期

父親の死をきっかけに価値観に変化が

エンターテイメントで世界を平和にする!

本日登場するのは、日本最大の振付師コンテスト「LEGEND TOKYO」でシルク・ドゥ・ソレイユ賞、ブルーマングループ賞、TRF SAM賞を受賞し、大会最多の三冠受賞をはたした人物。
その実績から、女賞金ハンターの異名を持つ。
またアポロシアターに単身乗り込み、オーディションを勝ち抜き、出場を果たした強心臓の持ち主。
既存のフレームをものともせず常に新しい挑戦を楽しみ、そして観客をたのしませる実験道場の名付け親。
彼女はダンスを通して何を学び、そして何を伝えようとしているのか。

さあ…
実験道場
Junko✩様の登場です!

絵本と骨折の幼少時代

子どもの時は絵本に囲まれていました。
母が絵本をたくさん買ってくれましたので、家中が絵本で溢れていましたね。
今、私が次々と新しい挑戦を生み出せるのも、この時に絵本から得たインスピレーションが大きく影響していると感じています。
柔らかい物の見方や、捉え方を学んだのだと思います。
それと同時に活発な子どもでもあって、学童保育で男の子と木登りや基地遊びをしたり、遊具から飛び降りたりするのは常でした。
小学校低学年までに骨折を3回経験しましたから。
その時に保険金がもらえることを知ったので、「その保険金は私のだから将来のために貯金しておいて」と親に頼んだりもして。
今思えばちゃっかりした子だったなと(笑)
小学校6年間お世話になった先生達にも大きな影響を受けました。
いつもいたずらばかりの私に「やればできる」とか「形あるものはいつか壊れる」といった大切なことを、何度も繰り返し教えてくれました。
今の実験道場の大切なメッセージ「人生は実験だ!」に繋がる基本的な精神を導いてもらいました。

ダンスとの出会い

静岡出身なのですが、浜松で中学校高校を過ごしている時に、広末涼子さんに似ていると言われる時期があって、自然に芸能界に憧れるようになりました。
明治大学農学部に進学してダンスのサークルに入りました。
そこからダンスにのめり込んで、誰よりも練習するようになって。
でも私の中ではこのサークルよりも外の世界はもっと広くて、自分が井の中の蛙に過ぎないという意識があったので、大学外でのダンスに関わるイベントに参加したり、知識や経験を積極的に身に付けたりする努力をしていました。
当時、私自身はなぜか大学卒業後もダンス一本で生きていくという確たる自信があって。
根拠はもちろんないんですよ。
両親も心配だったと思います。
父親がわざわざ東京まで出てきて「じゅんさん、本当にダンスでやっていくの?大丈夫?大変だよ~」と優しく諭され、「大丈夫。私やるよ。やればできるよ」と。
銀座の高級寿司を食べさせてもらいながら言い切っちゃいました(笑)
父親と私はどこか似ていて通じるところもあったので、母も最後は「しょうがないなぁ」という感じでしたね。

ダンスで勝負すると決めて

卒業後はストリートでダンスを教えていました。
ワンレッスン500円。
私のダンスはパンキングというジャンルなのですが、当時はやっている人がほとんどいなかったですし、目新しさもあったので、OLやサラリーマン、大学生など、様々な立場の生徒さんにほぼ口コミだけで広まっていきました。
オフィスビルの片隅で始めたレッスンでしたが次第に生徒さんが増えて、新宿や高田馬場でレッスン場所を借りて開催するようになっていきました。
その後、ダンス仲間とともにTHE GALAXXXXY★というユニットを組むことになって。
これは真に商業的な実験で「美女&ダンス&パフォーマンス」というキーワードで売れていくということに挑戦したんです。
この実験によって「女賞金ハンター」という称号を得て、さらに名前を知られるようになりました。
そこから吉本クリエイティブエージェンシーに所属する機会も得ました。
ただ私自身はその時に、セルフプロデュースのスタイルが私らしいという学びを得ましたので、今の実験道場のいわゆる直感行動が最も自分らしく自分自身を表現できていると感じています。

ダンスで魅せるパフォーマンスとは何なのか

当時の私のスタイルは、ダンスを何分間か見せるショーでした。
しかしそれよりも、60分や90分、もっと長い時間をオーディエンスと共有して楽しませたという思いが強くなっていた時、蛇澤兄弟(TAKEchanとKEKKE)に出会いました。
リーダーのTAKEchan はダンスもできるしMCもできて、俳優業の傍らお笑いをやっていた人ですからトークも面白い。
まさに私が目指していたスタイルを実現している人だったんです。
2015年に実験道場に参加することになって、実はこのグループ名も私が考案しました。
イメージしたのはNYのオフブロードウェイの雰囲気です。
いつ行ってもエキサイティングで感動的なエンターテイメントが開催されていて、毎回新しい試みと発見があるような。
実際に現在、我々実験道場は90分の公演を毎月新作でお届けしているという驚異的なライブを行なっています。
冷静に考えて「よくやっているな、私たち」と思います(笑)
でも確実に実験道場が力をつけてきている証拠です。

優しかった父親から学んだこと

夢中でダンスに取り組んでいたちょうどその最中に、私の背中を優しく押してくれた父をガンで失いました。
その喪失感は想像以上で、私は取り乱し、自暴自棄になりました。
当時はレッスン生を抱えていましたし、ダンサーとしていつも笑顔でいなければという思いがあったので、その悲しさを外に向かって表現することが難しい状況でした。
そして父の死から1週間後、突然一人でNYへと飛び立ちました。
海外へ頻繁に行くような生活でも性格でもなかったのですが、このまま日本にいても居場所があるがゆえに自分が「自分」でいなければならず、ただ一人になって冷静に考えたかったんです。
日本人が他にいない、NYのドミトリーの二段ベッドの上で様々な思いが頭の中を駆け巡って。
その時に強く思ったのが「人生は短く、今しかない」という事実。
人間は弱く、儚い。
病気で死ぬこともあれば、明日突然死ぬかもしれない。
生きている今この瞬間しかないのだと。
このNYでの大きな気づきがあったことで、父の死はただ悲しい出来事なのではなく、父から私への最後のプレゼントであったと思えるし、その事実を胸に私はまた1つ成長して、今日の私があります。

視野を広げるために新しい挑戦を

父の死をきっかけに、私自身の考え方や価値観は大きく変わりました。
世界一周のピースボートのツアーにダンス講師として参加したり、父の命を奪った病について知識を深め、がんセンターでフラッシュモブ企画を開催したりもしました。
がん患者の方々や子どもたちがフラッシュモブを見て笑顔になる光景は、価値ある素晴らしい経験でした。
ガーナやカンボジアで運動会を開催して、世界を楽しくする活動も行なっています。
実験道場の目指すところは、コミカルなダンスで人を笑わせる次世代ドリフターズ、もっといえば和製モンティ・パイソン。
笑いが人の心を柔らかくするし、世の中の現実と理想をわかりやすく表現して、最終的には世界平和を目指していきたい。
実験道場の成長と共に、私自身がダンサーというフレームから一歩踏み出してさまざまな活動を行うことで、今世界中で起きている問題や困難をHappyに変えていきたいと思っています。

取材を終えて・・・

ピンクのワンピースで、にこにこしながら現れたJunko✩さん。
YouTubeで垣間見る彼女のアポロシアターでの勇姿からは想像もしていなかった可愛らしさ。
取材中もずっと底抜けに明るく、礼儀正しい。
悲しい出来事であるお父様のお話でさえ力に変えて、前を向いて歩みだす。
湧き出でる泉のような純粋なエネルギーを感じました。
彼女の目標、「エンターテイメントで世界平和を」は彼女の存在自体が原動力であり、もう実現への歩を進め始めています。


プロフィール

Junko✩
静岡県浜松市出身
実験道場パフォーマー
シルク・ドゥ・ソレイユ賞、ブルーマン賞 受賞者
◆実験道場公式サイト http://jikkendojo.wixsite.com/comedian

実験道場vol.26
「WELCOME〜踊る髑髏城の五人〜」
7/29、30(土、日)全4公演
​昼の実験 START 14:00
夜の実験 START 19:00
3500yen
​会場 Le CAVE STUDIO
東京都渋谷区南平台町17−6
実験道場HPよりご予約可能です

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう