ラグビーは自分を輝かせる場
早稲田史上初のクーデター
コーチをコーチする仕事
本日登場するのは、早稲田大学ラグビー蹴球部監督に就任し2年連続で全国大学選手権制覇に導いたスゴい人。
強烈なオーラを放つカリスマ的リーダーであった前任の清宮監督とは対照的で「日本一オーラのない監督」というキャッチフレーズで知られた。
最初は部員とぶつかることが多くうまくいかなかったが、「フォロワーシップ」というスタイルを貫きチームをまとめたという。
「フォロワーシップ」はなぜ成功したのだろうか?
さあ…
日本ラグビーフットボール協会
コーチングディレクター 中竹 竜二様の登場です!
冷めていた少年時代
小学校で友達と会話をしていても、自分は頭が悪いとは思いませんでした。
でも国語の授業で本読みをさせられると、つっかえてしまいみんなの前で読めなかったんです。
読めないことがコンプレックスで、毎日が嫌でした。
のちに20歳をすぎてディスレクシア(読字障害)であると分かるのですが。
親と先生に相談したものの良いアドバイスはもらえず、あまりに苦しくて、小学生ながらに徹夜して次の日にあたる箇所を覚えました。
翌日つっかえずに読むことができ、先生もみんなも褒めてくれると思ったら無反応で、帰宅後すごく冷静になって2つのことを考えました。
1つは文字を読むことが多くなるからこれからの人生大変だと思ったのと同時に、徹夜して覚えたら何とかなったということ。
人の2,3倍努力しようと腹を決めました。
もう1つは、普通のことができても褒められないということ。
いま承認欲求があまりないのは、その時に全てを置いてきたのかな。
反抗するタイプではなかったのですが、小学生の時からすごく冷めていました。
ラグビーは自分を輝かせる場
家の前にラグビースクールがあって、兄貴が入っていた影響で小学校からラグビーを始めましたが、そんなに好きじゃなかったんです。
足は遅いし力もなくて、常に限界を感じながらやっていたので、効率を考えて相当練習しました。
ただ、自己認識力は長けていたかもしれません。
ラグビーって色々なポジションがあるので、考えて動けば活躍できるいいスポーツだなと思って。
例えば野球も陸上も能力がないと絶対活躍できないけれど、ラグビーは、自分の能力をごまかしながらプレーできるんだと思って、これを続けないと力を発揮できる場面はないと思いました。
早稲田史上初のクーデター
高校最後の大会で、ラグビーの甲子園である花園に出られればラグビー人生を終えようと思っていましたが、ベスト8くらいで負けてしまいました。
一旦ラグビーを辞めようと思い、地元の福岡大学に行きましたが、やはりもう一回やりたいと思って、仮面浪人して早稲田大学に入学しました。
早稲田では上の代が下の代のキャプテンを任命していました。
当初、僕ではない部員が選ばれたのですが「俺たちは中竹をキャプテンにしていきたい」と部創立以来初のクーデターが起こって。
大学とOB会が揉めに揉め、最終的に僕がキャプテンになりました。
一回もレギュラーになれずキャプテンになった人間は僕が初めてでした。
達観しているところが抜擢された理由にあるのかな。
組織のために何ができて、どう勝たせるか考えていたことを、周りは分かってくれたと思います。
僕たちの代の出来事は『オールアウト』という本で有名になって、たかが部活動ですけど、色々なドラマがあって濃い時間を過ごしました。
決断した進路
3年生になったらみんな就職活動をしていましたが、キャプテンになり、これからすごく濃い1年になるだろうと思いました。
部員、スタッフ、コーチを含めて200名近い組織をこれから僕が作っていく。
そんな壮絶な戦いの後に4月から普通に働いたら、絶対によくないと思って。
そこで、留学すれば就活しなくて済むと考えました。
その時間を設ければ自分の整理の時間にも充てられると思って。
特に理由はなく、ラグビーが盛んなイギリスを留学先にしました。
留学斡旋会社を通して現地に行ったら、書いてあることと違って「やばいところに来ちゃったな」と思いました。
学位も語学力もない中で帰ったら怒られると思って、ロンドン大学、レスター大学に行きました。
行き当たりばったりでしたが、最後に来るべくして来たなという社会学という学問に出逢えて、このまま学者になりたいと思ったくらいでした。
ふと聞こえた、お告げ
嘘みたいな話ですが、留学中、自分の部屋で勉強していたらお告げが聞こえたんですね。
「ちんたらイギリスにいるんじゃなくて日本に一回戻れ。就職しろ」と。
「やばい、聞こえちゃった」と思ってインターネットで「就活」と調べてリクナビに登録しました。
キーワード検索で最初に出てきた三菱総合研究所がすごく面白そうだと思って、受かっていないけど、ここに行くって決めて就活を終わりにしました。
僕はそれまで就活をしたことがなかったので、申し込んだから一次面接はできると勘違いしていて、何も考えず一時帰国をしました。
そこで、面接とは関係なく、お願いして担当者に会ってもらい、他の部署でも受ける気はあるかと言われ、もちろんあります、と答えて面接を受けた結果、その後紆余曲折ありましたが、奇跡的に内定をもらいました。
仕事が充実してきた矢先…
仕事は大変だったけど楽しかったですね。
いい上司にも恵まれて、ビジネススクールに通いながらお金をもらっている感じでしたね。
これからプロジェクトも任され、楽しくなるぞと思った矢先に前任の清宮さんから「次の監督候補に考えているから」と連絡があって。
なぜか、僕がやらなきゃって使命感に駆られましたね。
それで5年でパッと会社をやめて、ど素人の監督がスタートしました。
自分のスタイルを貫いた監督
監督1年目は本当にだめでした。
僕は選手に主体的に頑張ってもらい、自分は支えるフォロワーシップという考えなので、指示できないし引っ張れない。
引っ張る指導に慣れていた学生たちからは常に不満を抱えていました。
ある時、面と向かって「中竹死ね、辞めろ」と叫んだ部員がいて。
その時も怒らず、彼にどう責任を持たせて自分で頑張らせるか、すごく考えていました。
少しずつ雪解けして、本当のチームになったのは2年目から。
1年目に失敗して見えたものがあったので、2年目はスタートから相当自信がありました。
ただ優勝するんじゃなくて、圧勝して優勝したいと思っていて、その通りになりました。
コーチをコーチするという仕事
現在はコーチを育成するコーチングディレクターとして活動しています。
ほとんどのコーチは、教えるプロですが教わるプロではありません。
プライドとの戦いで、いかに恥を捨てるかだとコーチに言っています。
そして、自分は分かっているという勘違いを、いかにとってもらうか。
ラグビーだけでなく他の競技の指導者の指導もやっているので、全体として変わればいいなと思いますね。全員とは言えませんが指導者は確実にいい意味で変わっています。
これから一番大切にしたい仕事は2027年のW杯です。
そこで僕が作ったコーチ育成システムで切磋琢磨した人が監督になってくれることがベストですね。
取材を終えて・・・
小学校低学年で他の人と比べて文字が読めない現実を冷静に受けとめ、将来に対する不安を抱えながらも同時に覚悟を決めた子どもがいるとは衝撃でした。
当時はディスレクシアという診断はされず、努力が足りないという評価をされるため、中竹さんが行ってきた努力は想像を絶する。
この辛さを克服し手に入れた冷静沈着な判断力がキャプテンや監督業をされるときに大きく役立っている事は間違いない事実である。
「ほとんどのコーチは、教えるプロだが、教わるプロでない。しかし、成果を出すコーチは、皆、教わるプロであり、学ぶプロである」と中竹さんは説いている。
中竹さんの教育を受けて育つコーチが日本中に広がることが、日本の未来を明るくする。
プロフィール
中竹 竜二(なかたけ りゅうじ)
日本ラグビーフットボール協会コーチングディレクター
株式会社TEAMBOX 代表取締役
1973年、福岡県生まれ。早稲田大学卒業、レスタ—大学大学院修了。三菱総合研究所を経て、早稲田大学ラグビー蹴球部監督就任。
2010年、日本ラグビーフットボール協会 「コーチのコーチ」指導者を指導する立場であるコーチングディレクター に就任。
2012年より3期にわたりU20日本代表ヘッドコーチを経て、2016年には日本代表ヘッドコーチ代行も兼務。また2014年、株式会社TEAMBOX設立、企業のグローバルリーダーの育成トレーニングを行っている。
◆ホームページ http://ryujinakatake.com/