全か無か
リオ・オリンピックの夢が砕け散り燃え尽き症候群に
2020年に向けて
スポーツの世界では、世界の強豪チームと日本代表チームが戦い、素晴らしい試合を繰り広げる事で一気に注目を浴びることがある。
次に注目されるスポーツは何か?
まだ意外と知られていないが、ハンドボールに注目が集まってきているように思える。
ここ数年多くの日本人選手が海外に移籍し、力を付けてきている。
本日登場するスゴい人は常に日本のトップチームで成績を残し、世界最強のハンガリーリーグで活躍していたスゴい人。
2020年に開催される東京オリンピックでは間違いなく注目されるスゴい人である。
彼女はどんな気持ちで、世界で戦い続けて来たのだろうか。
さあ…
ハンドボール選手
石立 真悠子様の登場です!
ハンドボールとの出逢いは中学時代
ハンドボールを始めたのは、中学でハンドボール部の先生から「やってみないか」と声を掛けられたのがきっかけでした。
最初は面白いと思っていたのですが、夏休みを境に先生が激変したのです。
それまで手加減されていたのでしょう。
暗くなっても先生の車のヘッドライトの中で練習し、ボールが見えなくなるとランニングするなど、いつも最後まで練習していました。
誰もが辞めたいと話すのですが、仲間がいるから辞められない。
毎日しんどかったです。
全国大会に出ることはできたのですが、初戦で負けてしまいました。
私個人は冬にJOC大会の県の選抜に選ばれ、3位になりました。
ハンドボールは中学までで辞めたい
ハンドボールは中学までで辞めようと思っていました。
やるにはもっと楽しくプレーしたい気持ちがあり親に相談すると、石川の高校はどう?と言われ、家族で引っ越して石川の高校に入りました。
実は親が元々石川出身で老後は石川で暮らそうと思っていたのと、その高校はバックパスやトリッキーな技を取り入れ、すごく楽しくプレーしていたのを親も知っていたからです。
その高校は本当に楽しかったです。
練習時間の半分はフリー練習で、自分で考え、自分の好きな練習をするのです。
一つ上の代は選抜大会で優勝、インターハイ2位、国体3位でしたが、私達の代は3冠を獲得しました。
その年は1試合も負けなしでした。
試合になると一人ひとりがきっちり役割を果たすチームでした。
熱いチームではなく、淡々とやっている感じで喧嘩もないチーム。
中学の時とは真逆で、キャプテンである自分がヒートアップしても周りが冷静なおかげで、自分も感情的にならず客観的に周りを見ることができました。
全か無か
兄が医者で姉が看護師なので元々医者になりたかったのもあり、高校を卒業したらもう辞めようと思いつつ、もしハンドボールを続けるなら一番強いチーム以外は考えられないと思っていました。
NTS(ナショナル・トレーニングシステム)の練習会で当時一番強かった筑波大学の水上先生に「うちに来るか?」と声をかけてもらったので即答で「行きます!」と答え、筑波大学に入りました。
強いチームのはずなのに大学1年生の時は全く勝てませんでした。
自分がやってきたプレーが全く通用しないというわけではないけど、それまで個人プレー中心でやってきたので、チーム全体で作り上げる戦術的な技術が自分の中に無かったのです。
この時は壁にぶつかっていて、勝てない!といつも打ち上げで泣いていました。
強いチームになるストーリーを学ぶ
2年生の時、キャプテンが練習を全て一新したのです。
そのキャプテンは既にナショナルチームからも声がかかる選手でした。
ルーズボール(こぼれ球)を大切にする、競り合っても負けない心など、厳しく徹底的に指導されることで、チームがみるみる強くなりました。
この時、強いチームになるストーリーを学びました。
春リーグ、秋リーグ、インカレと全て優勝しました。
ただ筑波大の目標は実業団も加わった全日本総合でベスト4でしたが、その年は確かベスト8で終わってしまいました。
最後の年は全日本総合でベスト4に入ることができ、国体でも2位という成績を残せました。
ジュニアの世界選手権の時に海外移籍の話が出たのですが上手く進まなくて、その頃から海外でプレーしたい思いが芽生えました。
大学の試合が全て終わり肩の手術を終え、体作りも必要になったのと、海外に行くなら日本代表に入ってからの方が契約条件も良くなると聞いていたので、当時1位だったオムロンにお世話になりました。
日本トップチームから海外移籍
オムロンでは組織力やチームの力の大切さを教えてもらいました。
4年目に優勝し海外移籍の道を考えましたが、次年度がオムロン創立80周年の記念の年だったのでそこにハンドボール部として花を添えたいと思い、もう1年オムロンでプレーしながら海外のチームを探し始めました。
学生時代に海外移籍の打診もしてくれていたハンガリー人のコーチにチーム探しをお願いし、ハンガリーチームの監督から声が掛かりました。
それまでは、日本代表として世界の強豪と戦うと、自分が日々強くなっていくのが分かるのですが、帰国するとまた日本レベルに戻っていく自分が嫌でした。
だから海外移籍に不安は一切なく、強くなる自分をイメージし、ワクワクしていました。
私のポジションは司令塔で指示を出さないとならないのですが、ハンガリー語ができなかったのでその点は苦労しました。
ただ、日本のように細かく指示を出すのではなく、大きな指示を出すだけで動くチームだったので助かりました。
日本人に対する差別もありましたが、日本に戻りたいとは全く思わなかったです。
厳しい環境に身をおき、強くなれる事だけを目的としていたからです。
リオ・オリンピックの夢が砕け散り燃え尽き症候群に
自分達の力で40年ぶりのオリンピックを勝ち取る為に頑張ってきたのですが、予選で負けてしまい燃え尽きてしまいました。
契約期間の2年も終わるので、帰ろうかと家族に連絡を入れました。
ハンガリーで何か自分なりに成し遂げた事があれば戻っておいでと言われた時に、自分の中では何も見つからず満足できていなくて、もう1年残りました。
それまではナショナルチームとの行き来で、チームのためにやりきれていなかったので、最後の1年はチームのために貢献しようと決めました。
私にとってのハンドボール
1年間ヨーロッパを転々と遠征しながら、ハンガリーリーグもあり、週に2回タフな試合も続きました。
訪れた国々でどれだけハンドボールが愛されているかも体感でき、運営方法なども学べました。
強豪チーム達とギリギリの試合をできたことは、すごく勉強になりました。
3年目はチームの一員としてファンにも認められた感じがあり、やってきた1つの証となりました。
2日前に帰国したのですが、今後のことはまだ明確に決めていません。
昨年ハンガリーで12、3歳のチームのコーチをしたことで、育成に関しても興味がでてきました。
基本的には日本に籍を置いて講習会もやっていきたいし、東京オリンピックにもコーチか選手かわかりませんが貢献して行きたいです。
ヨーロッパのチャンピオンズリーグにも出場したいので、出場するチームから声がかかれば行くかもしれません。
何を選択するにせよ、自分がこれから更に1ランクジャンプUP出来るかが勝負です。
取材を終えて・・・
サッカーもラグビーも女子チームが注目されている中、日本のハンドボール女子チームも近い将来国民が注目する成果を出しそうな予感がしている。
文化の違いはあるが、ヨーロッパでは日本におけるサッカーの様にハンドボールが盛り上がっている。
コートに7名。ベンチに16名。
何度でも入れ替えしても良いルールと聞くと、入れ替えだけでも試合の空気が変わるはずなので面白そうだ。
実力もさることながら、性格もスポーツマンらしく明るく爽やかな石立選手。
メディアうけも良さそうな感じがしたので是非、メディア露出を増やしてもらいハンドボールの楽しさを日本で伝えて欲しいと思った。
プロフィール
石立真悠子(いしたて・まゆこ)
1987.1.18 福井県福井市生まれ
■福井市みのり小学校
みのり陸上スポーツ少年団に入団
■福井市明倫中学校
ハンドボールを始める
U-16日韓戦出場
■石川県小松市立高校
三年時高校三冠
U-19アジア選手権二位
■筑波大学
ジュニア世界選手権10位
全日本学生選手権3連覇
■オムロン
第36〜38回日本リーグ優勝
第37回日本リーグプレーオフ最高殊勲選手賞
第38回日本リーグベストセブン
2014 7月からハンガリー、Fehérvár KC(フェヘールバール ケーシー)に移籍。
3年間をハンガリーで過ごす。
福井県体育協会に所属して福井国体を目指しながら、自身の経験を伝えていくために講習会を行い、ハンドボールの強化、普及に尽力する。