進行性難病、筋ジストロフィーと戦いながら歌で夢と希望を届け続けるスゴい人!

動かなくなる体、諦めと絶望の日々

人生を変えたふたつの出会い

本当の自分の思いを知り、ありのままに生きる

進行性の難病、筋ジストロフィーという病気をご存知だろうか。
発病した瞬間から次第に筋萎縮と筋力低下が進行し、ゆくゆくは呼吸をするための肺や心臓を動かすための筋肉すら動かなくなり、死に至る病である。
そんな難病をその身に抱えながら、「どんな人でもどんな状態でも夢や希望を持てる社会にしたい、どんな人にも役割がある社会にしたい」と、歩くことすら困難な体で全国各地で歌い、語り、夢と希望を届け続ける彼女の強さはどこから生まれているのか。
絶望と葛藤を乗り越えて、輝き続ける彼女の半生をご紹介する。

さあ…
シンガー
小澤綾子様の登場です!

動かなくなる体、言えない辛さ

小学4年生くらいから、だんだん体が動かなくなっていきました。
走るのが遅くなっていって、中学生の頃には周回遅れくらいになっていました。
みんなにばかにされて、いじめられて。
体育の時間は自分のことを押し殺して「誰もわたしのことを見ないで」って。
透明人間になりたいって思っていましたね。
その辛さを誰にも言えなくて。親にも言えないし、仲のいい友達にも言えないし。
私はひとりぼっちなんだなと感じていました。
その時のことが何回思い出してもトラウマなんですよね。
生きてはいましたが、心が死んでいたように思います。

誰にも認めてもらえない

中学3年生の時に、担任の先生に「病気かもしれないから病院に行った方がいい」と言われて、初めて親に「病院に行きたい」と言えました。
けれど、病院の先生から返ってきたのは「個人差です」という言葉でした。
その時に、張り詰めていたものが全部あふれて。
初めて親の前で大声で泣いたのを今でも覚えています。
個人差じゃないってずっと思っていた気持ちを、誰にも認めてもらえないんだって。
その頃はもう、ほとんど走れなくなっていたんですよ。

病名の確定、絶望のどん底へ

20歳の時に、階段を昇るのに手すりがあっても息があがるほどの状態になっていたので、初めて大学病院に行き、そこで病名が分かりました。
ひとつの感情としては、あ、やっぱりなと。
初めて認めてもらえたと思いました。
でも、一方で絶望しました。もう生きている意味ないなと思ってしまって。
だんだん動かなくなる身体でみんなに迷惑をかけて生きていくなら、死んだ方がいいと。
ショック過ぎて当時の記憶はありません。鬱っぽくなっていました。
親に心配をかけないようにと思って明るく振舞っていたけれど、心の中では生きている意味がないと思って毎日泣いていました。

人生を変えた出会い、前を向くきっかけ

リハビリのために病院に通っていたのですが、先生が凄く冷たかったんです。
「そういう風に下を向いてずっと生きていくと誰も寄って来ないよ」、「君はひとりで寂しく死んでいくんだ」って言われて。この人なんてこと言うんだって思いましたよ。
でも、何度も通院していくうちに、本質を掴んで生きる事の大切さや、病気があっても活躍している人の話を先生はしてくれて、少しずつ私も変わって行きました。

それでも満たされない

だんだん前向きになってはいましたが、それでも何かが足りませんでした。
毎日悶々として、高校の時に好きだった音楽をやれば変わるんじゃないかって思って同期に声をかけてバンドを始めたのですが、あの頃みたいに楽しくてなにもかも忘れられるという感覚は得られませんでした。
どんどん体が動かなくなっていって、人の助けを借りないと生きていけなくって。
みんなとはやっぱり違って。
私はなんで生きているんだろうってずっと考えても答えが出なくて。
何をしていても、なんで生きているんだろうって思っていましたね。

人生を変えた出会い、自分の生きる意味

バンド活動をしている間に、わたしが今の活動を始めるきっかけになった、栄次さんと出会いました。
筋ジストロフィーには種類がたくさんあるんですね。
栄次さんは進行が凄く早くて30年間寝たきりでした。
手も足もほとんど動かなくて、それでも凄く明るくて。
「自分は作詞作曲もしていて、あなたは歌を歌っているんだったら、自分の歌を同じ病気のあなたに歌って欲しい」って言ってくれたんです。
この時初めて自分が生きる意味を見つけた気がしました。
これは私にしか出来ないかもしれないって初めて思えました。
生きようって。生きていてよかったって。
栄次さんからこの曲をCDにしたい、と相談され、私が動ける分、この歌をたくさんの人に届けようと思いました。でも、栄次さんはメールをくれた2ヶ月後に亡くなってしまったんです。
栄次さんはすぐに形にしたかったんだ。なんであの時すぐ作ろうって言わなかったんだろうって。凄く悲しかったです。
けれど、彼の夢を叶えるのは私しかいないと思い、一大奮起して歌を歌うようになりました。
すると、なぜか全国に呼ばれるようになって、新聞やテレビの取材もたくさん来たりして、人生が劇的に変わりました。

本当の自分の思いを知り、ありのままに生きる

活動を続けていくうちに、ドリームプラン・プレゼンテーション大会で自分の夢を伝えたいと思うようになりました。
プレゼン資料を作るために深堀りしていく中で、自分は小さかった頃の自分を幸せにしたいんだということに気づきました。
今まではみんなを元気にしたいって言っていたんですが、究極のエゴだったんですよ。
私は小さかった頃の自分を幸せにするために、歌って講演をして世の中を変えようとしているんだっていうことがストンと腑に落ちたら、肩の力が抜けてより自然体でいられるようになりました。
その時までは満たされないものを追い続けるかのように、すごくガツガツしていたんです。けれど、そこからはありのまま。呼ばれるところがあれば、ご縁があれば行く。
夢はあるんですよ。どんな人でもどんな状態でも夢や希望が持てる社会にしたい、どんな人にも役割がある社会にしたいっていうのはあるんですけど。
私はただ呼ばれるままに、ご縁の繋がるままに、ありのままの私を伝えています。

今を生きる。すべてに感謝

日々出来ないことに直面して、心が折れることがたくさんあります。
でもだからこそ人に感謝できるし、今をもっと真剣に生きようって思えるんです。
それは神様がくれた凄いギフトだなって思います。
健康な人も病気になってから初めて気づくことがたくさんあると思いますが、わたしの場合は毎日が病気になった状態なんです。
毎日今あるものを大事にしようって、朝、会社に行く時にひとつひとつのことに感謝しながら行くようにしているんですよ。
今歩けることに感謝、目が覚めることに感謝…感謝して歩いていると、とても幸せな気持ちになる。それが毎日の日課です。
目が覚めない友達がたくさんいる中で、私は目が覚めた。
あたたかい布団に入れて、食べ物を普通に食べられる時になんだろう、幸せがあふれてきちゃうみたいな。毎日が幸せ。
辛いことも悲しいこともたくさんあるけれど、噓偽りなく幸せなんです。

取材を終えて・・・

小澤さんはIBMでバリバリ働いています。
仕事終わりに待ち合わせしたのですが、時間になってもいらっしゃらない。
すると「転んでしまい誰も人が通らないので起き上がれなく時間が過ぎてしまいました」とメールが入りました。
転んだら一人で立ち上がれない程の状態とは。暫くすると満面の笑みで現れたので一安心しました。
旦那さんは会社の同期で、みんなそれぞれ出来ることと出来ないことがあるのは当たり前だと、自然体でご両親と共に受け入れてくれたそうです。
そろそろ杖で歩行するのも限界で、車椅子を注文していると話されました。
障がいは生活をしてく上で苦労を伴いますが、この苦労・苦悩に日々直面することで彼女の心は強く、深く、そして澄み切ってゆくのでしょう。

プロフィール

小澤綾子(おざわ・あやこ)
千葉県君津市生まれ。
20歳の時に進行性の難病筋ジストロフィーと診断がつく。
10年後には車椅子、その先は寝たきりと医師から告げられ、どん底に落とされる。
しかし、今を全力で楽しく生きていこうと決め「筋ジスと戦い歌う」と掲げ、現在はイベント、学校、病院、老人ホームなどで講演ライブを行い、全国に生きることを伝えている。その活動はTVや新聞などメディアでも多く取り上げられている。2015年は東京コレクションモデル、ドリームプレゼンテーション世界大会感動大賞受賞など活動の場を広げている。
一方で日本アイ・ビー・エム株式会社 人事 ファンデーション 次世代育成推進 という肩書を持つ。
◆オフィシャルホームページ http://challenged-ayako.com/

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう