一度は弁護士の道を諦め、就職
働きながら2年で一発合格した勉強法
人生の転機は、54歳
本日登場するスゴい人は、48歳からロースクールに通い、弁護士になったスゴい人!
東京大学法学部を卒業後、一度は弁護士の道を諦め、就職。
しかしそれから25年の月日を経て、再び弁護士を目指すこととなった。
再び弁護士を目指したきっかけとは?
何かに挑戦したいけど勇気が出ない社会人の方、必見です。
さあ…
青山東京法律事務所
弁護士
植田 統様の登場です!
子どもの頃はガキ大将
小さい頃は体が弱かったそうですが、小学校に上がってからは元気になり、少年野球のピッチャーをして地区の野球大会で優勝したりしていました。ガキ大将でしたね。
勉強は小4までイマイチできなかったのですが、5年生で成績が5ばっかりになりました。
若くて運動の得意な先生だったので、ウマが合って、授業も聞くようになったんでしょうね。
駒場東邦中学に入学し、自分では入学時は結構スレスレで入ったと思っていますが、中1で実力テストを受けたら学年で12番、翌年16番に落ちて、それ以降10番を外したことは無かった。勉強はできましたね。
一度は弁護士の道を諦め、就職
現役で順調に東大法学部に入って、その時から弁護士みたいな仕事をやりたいと思っていました。
親父が船乗りだったんですが、ある意味自営業で定年もない世界。
今になってわかるけど、僕はチームプレーヤーじゃないんですね。
自分でやるのが好きで、自分が思うようにやりたいから、弁護士のようなインディペンデントなビジネスが合っている。親父もそうだったんですよね。
1年留年して司法試験を受けたけれど、1年ではとても受からなかった。
当時の司法試験は10年くらい勉強しているのが当たり前だったので、東大の法学部を出ても1年2年では受からず、1年留年してやめるというパターンが多かったですね。
銀行に就職して、選ばれてアメリカにMBAを取りに行って、それからは外資系の世界でずっとやってきました。
再び弁護士を目指すとき
再び弁護士を目指したのは、レクシスネクシスで日本法のデータベースを作るために日本支社長として雇われたのがきっかけでした。
当時は小泉元首相が司法制度改革をした時で、司法試験制度が大きく変わり、ロースクールもできた頃。
大学卒業から25年経って仕事で会う人が弁護士ばかりになり、話を聞くうちに夜間でも勉強できることを知り、ロースクールができて3年目に、ついに行くことを決めました。
外資系の世界でなかなか50歳を超えても転職がきくというのは珍しく、50歳前にどこかでリストラされて、コンサルタントとして個人で開業するのがほとんどです。
そういう周りの人がいるのも知っていたから、もともとやりたかった事ですし、弁護士になれたら一番自分には合っているなと思ったんです。
今思えば、そういう強い思いがあったから合格できたんだと思います。
働きながら2年で1発合格した勉強法
2006年、49歳から成蹊大学のロースクールに2年通って、1回目の受験で合格しました。
僕は要領が良くて仕事も速いので、人ほど勉強時間がかからないんです。
平日は仕事をしているから、勉強できるのは朝早く会社の近くのカフェで30分、家に帰ってからせいぜい2時間くらい。
だから僕は最小限のものだけやりました。
みんなが教科書を読み込む中、判例六法で最高裁判例を読んで、予備校で答案を書く練習をする。基本はその2つに絞ったんです。
予備校講師の解説でこの勉強法を知って、「すごいこと言っているな」と思って勉強の仕方を決めました。
受かった時は、何よりも母が喜んでいましたね。
学生時代から司法試験に合格したかったというのは、よく知っていたので。
母はその後亡くなって、弁護士になるところまでは見せられなかったけれど、司法試験に受かったので安心はしたと思います。
人生の転機は、54歳
転機は、弁護士専業でやっていこうと南青山M’s法律会計事務所に入った時でした。
僕は何度も転職をしているけれど、慎重居士なんです。
40歳くらいの時には条件の良い会社からも声がかかったけれど、そこで5年10年やっていけるのかと考えて、他の人なら飛びつくような仕事でも何度か断っていました。
一つのところに入ったら5~6年はやろうと思って、慎重に判断していました。
普通だったら弁護士がこれだけ増えて、いきなり独立して大丈夫なの?って思うじゃないですか。
でもそこは割とスパッと吹っ切れたんです。
今にして思えば、学生の頃からこの仕事をやってみたいと思っていて、何となく自分はできるんじゃないかと思っていたんですよ、心の奥底で。根拠のない自信があったんです。
だから外資系コンサルティング会社を辞めたとき、「いきなり独立するとは思いませんでしたよ」と周りの人には言われました。なぜか腹が据わったんですね。もう自分で稼ぐしかないと。
それまでは給与取りで、会社の看板の中で仕事をしてお給料をもらっていましたが、独立しちゃったら自分でやるしかないなと。
2012年、54歳の時でした。
色々な人に会うけれど、自営になった人と雇われ人はやっぱり違って、お客さんもそれはよく見ているんだと思います。
自分でリスクを取ってやっている覚悟があるから、頼んでみようと思ってくださる。
弁護士のところに相談にくる時は、一生に一回の重大事件にぶち当たった時ですから、それを誰に任せるかと考えると、相手がどっしりしていないと任せられないですよね。
個人や中小企業が相手になり、人生がかかっているので緊張感や真剣度が違います。
ちゃんとうまく解決できた時には喜んでいただけるし、すべてが自分の力量次第なのがこの仕事のやりがいを感じるところだと思います。
セカンドキャリアを考える
今は平均余命が男性でも80代まで延びていて、定年から20年もあります。
僕が最初に転職したのは30歳で、一流の銀行にいたから家内は反対しましたよ。
でも今は良かったなと思います。
結局やらないと一生後悔し続けることになるんですから。だったらやっちゃえよ、と。
悩んで残る人が80%くらいだけど、どっちみち50歳くらいになるとそういう時が来るんですよ。
それまでは安定して生活ができたかもしれないけど、銀行じゃ50歳くらいになるとみんな子会社に出されたり、取引先に世話になったり、遅かれ早かれ来るんですよね、そういう時期は。
本当に自分がやってみたい事があるんだったら、ウジウジと悩んでいるよりも思い切ってやった方がいいと思います。
それで失敗したら自分の責任だけど、諦めがつきますから。
80歳まで弁護士として働き続ける
今後は、弁護士として80歳まで働きたいと思っています。
サラリーマンを30年間やったので、半分ずつやって終えたいと思っているんです。
自分でやるのが好きだから、自分の手の届く範囲である程度事務所を拡大して、大きな会社からも雇われるようになりたい。
仕事をするのが楽しくてやっているので、楽しみながらお客さんの問題を解決できればいいと思っています。
取材を終えて・・・
お話しくださる言葉から、本当に弁護士のお仕事が充実されていて、楽しんでいらっしゃるんだと感じました。
子どもの頃から勉強は得意だったという植田先生ですが、勉強はやり方次第で、もともと頭のいい人と悪い人の差なんてほとんどない。
誰かに仕込まれて勉強した時期があって、自分でこれだと思える勉強法を見つけ出すことが大切、とおっしゃっていました。
「本当に自分がやってみたい事があるんだったら、やった方がいい」という言葉も、多数の企業で活躍され、50代で弁護士へと転身された植田先生から聞くとより一層説得力を感じました。
プロフィール
植田統(うえだ・おさむ)
東京大学法学部卒業後、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行。
アメリカ・ダートマス大学MBAコースへの留学を経て、世界の四大経営戦略コンサルティング会社の一角を占めるブーズ・アレン・アンド・ハミルトン(現PWCストラテジー)に入社。
野村アセットマネジメントでは、資産運用業務を経験。
世界有数のデータベース会社であるレクシスネクシス・ジャパン株式会社では、社長業を経験。
その後、世界最大の企業再生コンサルティング会社であるアリックスパートナーズに入社し、ライブドア、JAL等の案件を担当。
2010年弁護士登録を経て、2012年南青山M's法律会計事務所に参画し、2014年6月青山東京法律事務所を開設。
現在は、名古屋商科大学経営大学院教授として経営戦略論、企業再生論等を学生に講義するほか、イギリスのケンブリッジ大学出版社、ドイツのダイスター社、日栄インテックグループの株式会社サイラスの監査役も務める。
著書
「45歳からの会社人生に不安を感じたら読む本」(日本経済新聞出版社)
「残業ゼロでも必ず結果を出す人のスピード仕事術」(ダイヤモンド社)
「人生に悔いを残さない45歳からの仕事術」(日本経済新聞出版社)
他多数
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