17歳の時の事故で両下肢の機能を失う
パラリンピック3大会連続日本代表選出されるまでの裏側
スポーツというカテゴリーにおいて健常者も障がい者もない
「今の生き方ができて、ある意味あの事故は私にとってはラッキーだった、むしろこの身体になったからこそで出来る、出会える人がいると思っています」と前向きに語る、本日のスゴい人。
17歳、交通事故で胸から下が麻痺という重度の障がいを抱えながら、競技を始めて以降の目標にしていたパラリンピックへの出場を2008年に達成。
そしてロンドン・リオとパラリンピック日本代表に選出され、3大会連続出場を果たした。
パラリンピック日本代表への道をどのように切り拓いていったのか?
目標を達成するためにどのような行動を取ったのだろうか!
さあ…
車椅子陸上競技選手
松永 仁志様の登場です!
転勤族だった子ども時代
子どもの頃は父が転勤族だったため各地を転々としていて、当初はいじめらる事も多く、何度も転校をする度にその反動もあり、元気にヤンチャになっていったかな。
友達との別れに対する不安よりも新天地でどう生きていくのか、子供ながらにそんな事の方が大事でした。
同世代の人口が多く、その時その時に「自分を出していくこと」を考え「平凡ではダメだ!」と子どもながらに思っていました。
それから、小学校3〜4年生の文集に何の競技かは明確ではないけれど「プロの選手になりたい!」と書いたことを覚えています。
17歳、交通事故で脊椎損傷、両下肢の機能を失う
ヤンチャな高校時代に突然の交通事故。
運ばれた時にはもうダメだ、という大事故からなんとか生還しました。
しばらくの間、意識もなく、後にドクターから脊髄損傷・下半身に麻痺が残るかもしれないと聞きました。
ショックというより、自分の状態が理解が出来ないっていう方が正しかったかも。
でも、今まで散々迷惑をかけてきた両親、特に母の涙を見た時に、これ以上心配をかけられない、家族にも周りにも弱いところを見せたくない、だから態度では強がっていました。
それが功をなしたのか、性格が単純な自分は「強がっている」という日々に良い意味でマインドコントロール?されたのか“本当に大丈夫なんじゃないか”と思うようになり、「これから何ができるか?」と考えるようになってましたね。
競技に入っていくきっかけ、競技者としての始まり
18歳ごろ、リハビリのために転院した病院で車椅子マラソンをしている人に出会い、「やってみないか?」と誘われました。
元々陸上もやっていたし、勝ち負けがはっきりする競技が好きでした。
最初から高い目標がある訳でも無く、同じくして車椅子バスケットも始めたりと、出来る事を始めていきました。趣味程度でしたけどね。
その後25〜26歳頃、何かのきっかけで「今まで生きてきて、本当に真剣に全力で何かに打ち込んだことがあるだろうか?」とごんやり思った時期がありました。県内の仲間内ではそこそこ速い位置にいる自負もあり、少し背伸びしてみたかったかもしれません。1999年に行われた“シドニーパラリンピックの選考会”に出場しましたが、結果は惨敗。
でも、それがすごく悔しかったかというと、そうではなかったんです。
やっぱり世界を狙う人は違うな〜ってなんとなく思うだけで。
僕は子供の頃から「器用貧乏」、少しやれば人並みにできて“そこそこ、ほどほど”。
それを突き抜けるには厳しい現実と向き合わないといけない、それを避けてたと思います。
2000年、シドニーパラリンピックの競技のスタートラインには以前一緒に練習をしていた選手が並び、世界で戦っていました。
それが異常に眩しく見え、カッコよかった。
「俺も世界で戦いたい!」本当の競技者としての始まりはこの時かもしれないです。
パラリンピックを目指す!…しかし!
2004年アテネを目指すため、「俺は陸上で身を立てる!」と大口を叩いてバスケットをやめ、実力も伴わないまま、強豪選手の集う大分県に通う事になります。
当然、無名の自分は実力的には門前払い。
半ば意地になって岡山から大分へ、平日は仕事と練習、週末は大分に通い練習と年月を重ねます。
そうした時間は結果、強くもなり、コーチとも出会い、多くの選手と切磋琢磨を重ねて行きました。
2002年にはアジア大会で初代表、アテネへの足がかりができました。
当然アテネに行く気満々でした。
しかし、悲劇の2003年。
選考大会を重ねるごとにタイムが落ち続け、苦しく焦る日々。
2004年3月の最後の代表選考にも落ち、初めて本気で夢を追いかけた4年間、時間もお金も情熱も、その時の精一杯注ぎました。これは交通事故に遭い、歩けなくなった事よりも、何倍もキツくショックでした。
アテネの代表選手の中になぜ自分がいないのか。
他の選手が眩しく見えて、自分が情けなくも感じて。
目標に期日を設け、再スタート。そして目標達成!
やっぱり一度決めたこと!自分が本気で掲げたことを一度の失敗で諦めきれない!もう一度目指す!
2000年からの4年間、余すことなくやってきたつもりだが、同じプロセスを繰り返しても結果が変わるとは思えなかった。そして仕事を辞める決心をしました。
それまでは仕事・練習の繰り返し、しっかり休養を取り自身を見つめ直す余裕もなかったのです。
本来、力が伸びるタイミングは練習を積んでいる時ではなく練習後の回復期です。
その時間を作る為に、仕事を辞め、実家に戻り、競技に専念できる環境を求めました。
その時、その目標にたいして期日を設定する事にしました。
次のヨーロッパ選手権を目標として“1年間だけ競技に全てを費やそう!”というルールです。
だらだら夢を追い続けるのは、遠ざかるだけじゃないかと。
結果を出せば後につながる、ダメなら仕事に就こうと考えていました。
僕はこう思うんです、世の中で誰かがやったことがあるならば必ずその可能性や方法があり、自分にできない理由はない! 最も難しいのは“世の中で誰もやった事が無い事”だから。
そうして、成績が更に伸び、ヨーロッパ選手権でのメダル獲得に繋がったのです。。
自信がついたと言うより、競技を続けていける安堵感が嬉しかったですね。
そして2007年“北京パラリンピックの選考会”で早い段階で標準記録を突破、2008年北京から3大会連続でパラリンピック日本代表として選手を続けられています。
明確な期日を決めた夢を持つ!
僕は現在「夢は叶うもの!」各地で講演をさせて頂いています。
夢は叶ったらいいな〜という曖昧なものではなく、必ず叶えるものだと思うのです。
それには明確な期日が必要で、それによって初めてそこに至るプロセスに導かれます。
僕はやりたい事は何としてもやりたい!
その為には嫌な事も当然こなします。そんなことぐらいで諦めるならのは、夢や目標と呼べる物にさえなって無いという事、どれだけ想いを強く持てるかです。
しかし、人間にはその時々に能力の個体差があります。
そうした時、周りの人との比較で自分の評価をして、自信を無くしたり諦めたりしますよね。
それは成長のスピードが違うだけ、皆やれば伸びるんです!
僕は競技者として成長が遅い選手だと思っています。
だから45歳を迎えるこの年でも成長し続け、まだ可能性があると信じているのです。
生涯を通して伝えていきたい
自身の競技を支えてくれた恩恵は、後進の指導と共に、地域に様々な事を返していきたい。
次の目標は東京パラリンピック!スポーツの素晴らしさも伝えたいですね。
健常者の子どもたちが将来スポーツ選手を夢見るように、障がいを持った子どもも同じように夢見る世界であってほしいです。
障がい者スポーツは障がい者が頑張っているという福祉的な意味合いが根付いているけれど、スポーツというカテゴリーに健常者も障がい者もないことを、生涯を通して伝えていきたいと思います。
取材を終えて・・・
10代の頃に突然の事故で両下肢の機能を失い、強がりとは言うものの前向きに行動していた松永選手。 言葉の一つ一つに力強さが感じられた。
お話を伺っている時も障がいがあるようには感じられないほど、前向きで理知的な姿勢が魅力的。
夢や目標に期日を設けることや、練習よりも休養を取ることが必要なことは、私たちが生きて行く過程でも大切なことだと共感した。
後進の指導もこなす中、今もなお選手として成長していると話す松永選手、彼の夢の期日はまだまだ続く!
2020年東京パラリンピックが今から楽しみで仕方がない。
プロフィール
松永仁志(まつなが・ひとし)
1972年9月15日 大阪府堺市生まれ
所属団体 岡山県身体障害者陸上競技連盟 クラス T53
1987年 岡山県立東岡山工業高等学校入学 陸上部在籍
1989年 交通事故により両下肢の機能を失う(脊椎損傷)
1991年 車いす競技生活スタート
2001年 ゼノーテック・AC所属
2004年 プロアスリートとしての活動開始
2006年 国立吉備高原職業リハビリセンター勤務(非常勤)
NPO法人 桃太郎夢クラブ 車いす陸上競技アドバイザー
2008年 北京パラリンピック車いす陸上競技日本代表
2012年 ロンドンパラリンピック車いす陸上日本代表
2014年 株式会社 GROP sincerite 勤務
競技を初めて以降の目標としていたパラリンピックへの出場を2008年に達成、ロンドン大会への連続出場を果たす。そしてリオ2016パラリンピック日本代表に選出され、3大会連続日本代表入りを果たす。
県内では「障がい者も健常者も共に走る」をテーマに、天満屋陸上部・岡山大学と連携してNPO法人を立ち上げ、障がいを持った子供達 から大人まで、スポーツの楽しさ・素晴らしさを伝えるために陸上教室を開いている。その他、各地で講演等を積極的に行い、夢を抱え目標を立てながら進んで行く事の大切さを伝えている。
◆松永仁志選手ホームページ
http://hitoshi-matsunaga.com