放送作家から転身し、数々の話題を生み出すPRコンサルタントとなったスゴい人!

実力を発揮できずフラストレーションを溜めた日々

一行日報の生み出した効果

会社が最も成長した時期は意外にも…

本日登場するスゴい人は、広告に頼らずヒットを仕掛ける、PRのプロフェッショナル。
かつては「笑っていいとも」「スーパーJチャンネル」「めざましテレビ」などを手掛ける放送作家だった。
「ジャポニカ学習帳の表紙から昆虫がいなくなった」ということが話題になったり、布団専用クリーナーレイコップや鹿屋アスリート食堂が広く知られるようになった陰には、彼のPRがあったという。
なぜ彼はPRコンサルタントに転身したのだろうか?

さあ…
株式会社フロンティアコンサルティング
代表取締役
上岡 正明様の登場です!

仕事は見て覚えろ

ヤンパラなどのラジオを聞いていて「放送作家って面白そうだな」と、大学生の頃から放送作家になりたいと思っていました。
親父が自営業で運送業をしていたのを小・中学生の頃から手伝わされていて、当時から自立心のようなものはありました。
親は放任主義で、「冷蔵庫だけ餞別に買ってやる」と言われ、高校卒業と同時に一人で生活を開始。
当時はまだワープロの時代でしたが、大学生の頃にパソコンを買い、カラーでイラストの入った企画書を作ってテレビ局や作家さんのところに送り続けました。
20歳の時、師匠となる大岩賞介さんの門をたたき、大学を中退して作家の道へ。
すぐには食べられるようにならないので、作家さんの手伝いでリサーチや、ADのような仕事をしていました。
見て覚えろという世界で、近くで台本を手伝いながら覚えたり、夜中にテレビ局のゴミ箱や廊下に積まれている台本を持ち帰り、見て書き方を覚え、作って持ち込み続けました。
そのうちに「元気が出るテレビ」や「愛LOVEジュニア」などを担当するようになりました。
周りの環境がエキサイティングで、作っている現場にいることが楽しかったですね。
当時は週5日テレビ局に泊まり込んで働いていました。

実力を発揮できずフラストレーションを溜めた日々

大岩先生が病気になってしまって、不義理と思いながらも他の事務所に移り、そこから「めざましテレビ」「スーパーJチャンネル」「ワールドビジネスサテライト」の放送作家として4、5年働きました。
でも、自分では実力があると思っていたのに、どんなに頑張っても引っ張りあげられるタイミングがなく、大したことがないと思うような人が引っ張り上げられていきました。
このまま実力だけで頑張っても、引っ張り上げてもらえず、実力を発揮できないかもしれない。
そのうえ、当時上の世代には活躍する作家さんが大勢いて、詰まっている状況でした。
フラストレーションが溜まっていた頃に、テレビに出したいという企業が多かったので、親友から「会社を作ったら?」と言われ、もしかしたら二足のわらじでうまくやっていけるんじゃないか?と思い、28歳でPR会社を立ち上げました。

北千住のマンションの一室から始まった

北千住の2DKの自宅の1部屋を事務所にして、二人でスタート。
もう一人の役員が営業畑の人間だったのでテレアポし、自分が営業に行ったのですが、割とすぐに仕事が1つ決まりました。
「1年分先払いするよ」と言われたものの銀行口座がなくて、待って頂いて、大急ぎで口座を作りましたね。
運は結構強くて、それが無かったらすぐに辞めていたと思います。
コネも人脈も広報の経験もなかったので全部手探りで、最初の1件を決めてから2か月くらい給料がなかったりもしました。
少しずつ営業がうまく回るようになり、一人採用して3人体制に。
始めは二足のわらじと決めていたので、「放送作家がうまく行ったら辞めよう」とどこかで思っていたし、役員もそう思っていたと思います。
でも3人になった時に、彼の分は食わせなきゃいけないと、徐々に全員の覚悟が経営のほうに一点集中されました。
今思えば「自分はこれでやっていくし、役員の面倒を見る」と腹を据えて覚悟を決めた頃から、好転し出したように思います。
2年間は無我夢中で、自分は給料をほとんどもらわずに役員を優先しました。
きつかったけれど、そのくらい緊張感を持ってやっていたので今があります。

向かい風の中でチャンスをつかむ

創業して2~3年経った頃、サブプライムショックでPRと広告業界が大打撃を受けました。
でも、向かい風の時こそチャンスでした。
大手のPR会社に頼んでいた会社が見直しを始めて、依頼を受けたり。
ベンチャー向けの助成金が始まり、助成金を活用して人を採用したら、次の景気回復に乗れたんです。
その頃も事務所は変わらず、5畳のエアコンもない部屋で5人が働いていて、社員からの日報には「熱中症になりそう」という一言が。
「このままではヤバイ!引っ越そう!」となりました。
ある時、提案先の社長から「一つだけ条件がある。君のオフィスを見てみたい」と言われました。
この事務所を見せたら絶対に受注できないと思い、来社された時に「こんなマンションでやっている小さい会社ですけど、必死で頑張るので僕たちに任せてください」と言いました。
帰り道、駅に向かう商店街を歩いているときに「君に任せるから」と言ってくれて、すごく嬉しかったですね。
あの感動はいまだに忘れません。社長に感謝しています。

一行日報が生み出した効果

オフィスを移してからは、明日のこともわからない不安定期を脱して、新規の採用を始めました。
ずっとハローワークから採用してきて、社会人経験のない元ボクサーも、うつっぽい子も、面接の時に「水・金はサッカー応援のために早退させてください」という子もいましたが、この子たちが育ちました。
創業時から社員には一行日報を出させているのですが、毎日やることが自信につながるんです。
顔つきも変わってくるし、毎日見ているとバイオリズムが見えて、手を差し伸べるべき時期がわかるんですよね。
彼らは会社を出て、上場企業や保険の営業マンとして活躍しています。
創業から10年経った今でも、全社員と日報のやり取りは続けています。

会社が最も成長した時期は意外にも…

会社が安定すると、頑張りすぎて燃え尽きて、うつっぽくなってしまった時がありました。
これ以上働けない、会社に出ると良くないと言ったら、「来なくていいですから、しばらく僕たちが守るんで」とまだ25、6歳の若者たちが言いました。
そこから売り上げが2~2.5倍にまで伸びて、会社が急激に成長したのは、自分が会社から離れたこの時でしたね。
今後はPR会社として、さらにクオリティとパフォーマンスを出せる会社に成長させていきたいと思っています。

PRでバズる方法を書籍化!

ショウワノートの時も1か月で6000万件くらい広がりましたが、PRは広告やキャンペーン、イベントではできないような、世の中を盛り上げる、世の中に広めることができるのが面白いですね。
知りたい、話したい、教えたいと思ってもらって、第三者のおすすめを生み出し、広告を一切使わずに行列を作る仕事です。
広告はお金を払えば出せるけれど、取材されて記事になると信用度が違います。
問い合わせ率も広告のウン百倍になり、PRの広がりは広告の10倍の価値があるとも言われています。
今年1月に出版した書籍では、会社で実践しているPRの8×3の法則をすべて紹介しています。
「ここまで出していいのか」と悩みましたが、知ってもらうことがシェアになると思い、全部出しました。
巻末付録にバズるメディアリストもあるので、ぜひ活用してもらいたいですね。

取材を終えて・・・

この取材をするまで「広告」と「PR」の違いをあまり良く理解していなかった。
PRはお金を掛けずにテレビや雑誌などのメディアから取材依頼をもらう為の仕掛けをする事だったとは驚いた!
上手く人の口コミを作ることで、世の中にブームを作っている。
広告であれば数百万円〜数千万円かかるメディア露出を取材(無料)という形で取り入れ、費用を抑え最大効果を上げている。
上岡さん自身の印象は非常に実直で柔和な印象だった。
何より驚いたのはこれまでの採用はハローワークのみという点だ。
どんな人でも基本的に断らず入社させ「一行日報」で人財育成されてきたと言う。
PR会社は言葉を大切にされているはずだから、もしかしたら過去、上岡さんが部下とやり取りされた「一行日報」の中に部下を成長させる大きなヒントが隠されているのかもしれない。

プロフィール

上岡正明(かみおか・まさあき)
株式会社フロンティアコンサルティング代表取締役
戦略PR、ブランド構築、コンテンツマーケティング支援のコンサルティング会社を設立。これまでに、三井物産やSONY、日本瓦斯、ビッグローブなど日本を代表する200社以上の企業の広報やブランド構築、スウェーデン大使館やドバイ政府観光局などの国際観光誘致イベントなどを行う。
◆株式会社フロンティアコンサルティング http://frontier-pr.jp/

【新刊】『共感PR 心をくすぐり世の中を動かす最強法則』

今、ヒットを生み出す最も効果的なPRは、新・旧メディアを使ったハイブリッド戦略である。
「めざましテレビ」「笑っていいとも」の放送作家から転身、PR業界で数々のブームを仕掛けてきた著者が、低予算で効果抜群のPR術を公開する。
もはやテレビに出ただけでは売れない!

著書
◆『うねりチャート底値買い投資術』(ダイヤモンド社)
◆『一生、仕事に困らない! 29歳までに手に入れたい5つの箱』(大和出版)

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