本日登場するスゴい人は、プロ野球選手として入団1年目から大活躍し、新人賞のみならず、最多勝、沢村賞などを受賞。
最多勝や奪三振の新人記録は未だ破られていない。
ただ、このときの多投の影響で肩を痛めてしてしまい、無理をした結果、3年目以降は思うような成績が出せなくなった。
野手に転向もしたが、8年で現役引退。
最後の5年は本当にもがき苦しんだという。
その後は野球解説者となるが、その日暮らしのような生活が続く…。
そんな時に所属していた球団から受けたオファー。
二軍ピッチングコーチに就任することで大きく人生が変わっていく。
さあ…
侍ジャパン
ピッチングコーチ
権藤博様の登場です!
「運」
高校時代には目立った成績を収めることが出来ませんでしたが、ある試合で注目されて、西鉄からアプローチがありました。
たったそれだけで意識が変わり、不思議とチームメイトも驚くような投球が出来るようになりました。
ただ身体が細かったので、ノンプロで期限を決めて身体を鍛え、プロを目指そうと決意。
4年目に複数球団からのオファーをもらって、プロ野球界に入りました。
プロ1年目には69試合に登板し、35勝。
現代ではあり得ないぐらいに投げる回数が多かった。
完封した次の日に抑えで登板した試合で打たれてしまい、負けてしまった後、監督に呼ばれ、怒られるかと思っていたら、「稲尾(当時西鉄)でも杉浦(当時南海)でも完投した次の日には投げるんだ。お前はエースなんだから、同じように投げさせる」と言われ、憧れの稲尾さんと並んで評されることが嬉しくて仕方がなかったのを覚えています。
しかし、多投が原因で肩を痛め、実働3年、9年で現役を引退しました。
その後は3年間解説者をやっていましたが、試合のある時にだけ呼ばれる日雇いのような生活。
肩の故障を抱えた時期と解説者の計8年間は、先行きが分からず本当に精神的にキツかった。
そんなある日、二軍投手コーチのオファーが来て…ここから第二の野球人生が始まりました。
トップチームでの活躍を夢見る若い選手達を成長させる仕事。
実際に活躍するのを目の当たりにして、「ここで一生育てる仕事をしよう」と思えるほどでした。
二軍のコーチを8年間やってから、トップチームへ昇格。
そこからは、セパ両リーグの4球団でピッチングコーチをやりました。
しかも弱いチームばかりでしたね。
でも、どこのチームでも結果にこだわりました。
横浜では監督1年目でリーグ優勝も経験できましたね。
コーチとして、自分自身が味わった天国と地獄、肩の痛みを抱えながらの登板など、ピッチャーの苦しみは理解しているつもりです。
ですから、監督と激しく口論することもあります。
相手チームとだけでなく、チーム内であろうとも常に戦う姿勢でいますし、正しいと思うことは主張し続けます。
それが仕事だと考えていますし、クビになることは受けた時点で覚悟しています。
現役、コーチ、監督で何度も経験していることなので。
どんなことであろうと挑戦し続けることでしか、目指すものを達成することは出来ませんから。