台湾に生まれ、日本語が全くできない状態で日本に移住。
その後、中学、高校と日本人が通う学校に通いながら勉強をして医学部に合格。
東京大学医学部付属病院で研修、診療のあと医学博士の学位を取得し、1994年に病院を開院した。
今では1年間に15万人もの患者が訪れるクリニックに成長し、各界の著名人も数多く診療に訪れている。
病院が上手く経営できたのは、開院当初からサポートをしてくれたある人物の存在が大きいと彼は言う。
彼が目指すクリニックの理想像とは?
さあ・・・医療法人社団 鳳凰会フェニックス メディカル クリニック 院長・理事長
賀来宗明様の登場です!
「道に迷った時、迷わず難しい方を選べ、全てが正解」
16歳の春に、「1週間後に日本に行くよ」と突然父から告げられて日本での生活が決まりました。
日本語は聴くことも話すことも、書くこともできませんでした。
来日した翌日、区立の中学校に編入しました。
言葉が話せないのは、本当に辛かったですよ。
でも、台湾から海を渡って来た以上は自分は日本人なんだと思わなくてはならないと、頭を切り替えたのです。
小学生の時から、水滸伝の物語に出てくる梁山泊のようなキャラが濃くて熱い仲間に囲まれて一生を過ごしたいと夢見ていました。
そうなるためには、色々な職業の人と接することができる医療の道を選ぶのが一番いいと思い、医者を志しました。
クリニックを開院しようと考えていた時に、当時ある製薬会社の経営企画の方に相談に乗ってもらおうと会食の席を設けました。
そうしたら、
「医者よりもこのまま教授を目指した方がいいですよ。忙しいので帰ります」
と言って席を立たれたのです。
会食はわずか7分間で終わってしまいました。
諦めずに数日後もう一度連絡を取って、「東シナ海で一番になります」と啖呵を切ったのです。
そうしたら、「わかりました。先生に協力する。だけど、医療と一生真摯に向き合うことが条件です」
と言われたのです。
そこからの20年間、毎朝1日も欠かすことなく電話をかけていただき、病院の運営方法から資金調達、社員の育て方など何でも相談に乗ってくれました。
しかも、無報酬です。
想いに共感してくれたんですね。
病院が上手く続けてこられたのは、この方のおかげです。
そして本日まで支えてくれた家族、兄弟や友人に心から感謝しています。
私は、日本で一番患者さんに優しいクリニックを作ることを心に決めていました。
やさしさとは、医療レベルの高さはもちろんですが、もしその人の親だったらと考えて親身になった対応がどれだけできるかということです。
「親身」という漢字は、親の身と書くんですよね。
息子が今年の春で医者になるのですが、「名医にはなるな、良医になれ」と言っています。
出会った患者さんや全ての方とは、一生涯お付き合いをしたい。
その想いで、これからも医療の道を歩みます。
◆医療法人社団 鳳凰会
フェニックス メディカル クリニック
http://www.phoenix.gr.jp/
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