紅白出場も果たした日本人によるサルサ・バンド“オルケスタ・デ・ラ・ルス”
このバンドでヴォーカルを務めるスゴい人が本日登場する。
結成は1984年。日本ではサルサにまだなじみが薄い時代。
このままではデビューできないと考えた彼女は、デモテープを持って単身サルサの本場へ旅をした。
パナマ、プエルトリコではラジオ局にデモテープを持ち込み、一躍大人気となった。
そして向かった大都会ニューヨーク。
右も左も分からぬまま自力で調べて見つけた音楽事務所にデモテープを持ち込み、プロモーターとライブの約束を取り付けた。
そして約束から2年後の1989年に、ライブをする為に自費でバンドメンバー全員で渡米した。
夢を叶えるためにもっとも大切な事とは?
さあ・・・オルケスタ・デ・ラ・ルス ヴォーカル NORA様の登場です!
「自分の扉は自分で開けよう」
アメリカでの最初のライブは、クイーンズのライブハウスでした。
最初は外国人のお客さんが怖くて、いつお客さんが帰ってしまうかと不安に思いながら演奏をしていました。
4曲目の演奏中、前にいたカップルが立ち上がって、「あぁ、帰っちゃうんだな」と思ったら、二人が踊りだしたんです。
それから、他のお客さんたちも次々に踊りだして、ライブが終わる頃には狂喜乱舞の大盛り上がりでした。
それから、10日ほどの滞在期間で6回のライブをしました。
ラテンの地域では口コミの広がりがすごくて、「日本人がサルサをやっている」という噂が広まり、ライブの回数を経るごとにお客さんが増えていきました。
毎回ライブの始まる時は怖いのですが、終わる頃には会場中が熱狂していてニューヨーク中の噂になったんです。
そして、最後のライブは、パラディウムという4、5千人入るディスコでのライブ。
このライブが成功し、私が一人で訪ねた時にはあまり真剣に取り合ってくれなかったラルフ・メルカードが、「アルバムを出さないか」と声をかけてきたのです。
帰国後、日本ではBMGビクターで、アメリカではラルフ・メルカードの元で、デビューすることが決定しました。
デビュー曲は
「サルサ・カリエンテ・デル・ハポン」
日本語で「日本からの熱いサルサ」という意味です。
この曲の歌詞は私たちのことを書いた、サルサを好きになったきっかけや「日本からの熱いサルサを聞いてよ」という内容なのですが、レコーディングの時に有名なプロデューサーに「これは君たちの私的なメッセージだから絶対に売れない」と言われたのです。
ただ、アルバムの中の1曲なら別に良いだろうということでアルバムに入りました。
結局、発売してみると一番人気だったのはこの曲で、アルバムは、ビルボードのラテン・チャートで11週連続1位になったんです。
有名な人の言う事だから正しいに違いない、と思いがちですが自分の信じたことは曲げちゃダメなんです。
私たちはラテンと日本の違いを身にしみて感じながら、何が何だか分からないまま本当に好きなことをただやっていただけ。
自分が好きなことを貫くには、他人が何かしてくれるのを待っていてもダメ。
待っていたらどんどん時が経ってしまう。
私は、自分で扉を開けてよかったと思っています。
誰かにあけてもらっても扉の先の道は同じかも知れないけれど、挫折した時や苦しくなった時、自分であけたという事がすごく大きな自信になるのです。