海難救助にあたるライフセーバーの歴史は、日本ではまだ浅い。
海での事故は、日曜日の午後1時を中心とした前後2時間、海岸から100m、水深1.5m以上の所で多発するそうだ。
この事故を未然に防止し、いち早く危険を察知して人命救助に努めるいるのが、ライフセーバーだ。
自分の命をかけて人命救助に努めるライフセーバーの中で、日本人で初めてプロとなったスゴい人が本日登場する。
プロを目指すまでの人生を彼はどのように過ごしてきたのだろうか?
さあ・・・ライフセーバー飯沼誠司様の登場です!
「信は力なり」
幼少期は、喘息持ちの虚弱体質。
3歳から水泳を習い虚弱体質も少し改善され、上手くなりたかったので本格的なスクールに転籍し、低学年でも1日10km泳ぎました。
中学の顧問が陸上部も兼任していたので、水泳をやりながら頻繁に駅伝にも出ました。
自分は生まれつきのスポーツ心臓なので、中学までマラソンでは負け知らず。
高校はそのまま水泳でスポーツ推薦。
しかし、この高校3年間が一番辛かった。
毎日20km泳ぎ、誰よりも手を抜かずに練習しているのに、手を抜いている仲間に抜かれしまいには後輩にも追い抜かれてしまった。
出せないタイムを目にする恐怖に悩まされ、時計も見られなくなる程だった。
結局、高校3年間でたったの1秒しかタイムが上がらなかった。
悔しくてたまらなかったけど、絶対に逃げなかった。
心底、自分は泳ぐのが好きだったんですね。
大学のライフセービングクラブで逞しい人が溺れている人を救助するシーンを見て、自分も逞しい人間になりたいと思い、ライフセービングを始めました。
毎日毎日海で泳いでいたら、それだけでタイムが5秒縮まったのです。
あの3年間は何だったんだろうと考えたら、辛くてやらされている練習と楽しくて自ら進んでやる練習の違いでした。
それからは、生活全てが楽しめるようになり、前向きな人生へと変わりました。
振り返ってみると、あの3年間は無駄じゃなかった。
絶対に妥協しなかった日々が、強い精神を作り上げていたのです。
その後、中学の頃からの夢だったJTBに無事内定。
同じ頃に、ライフセーバーのプロシリーズが出来たのです。
世界250万人のライフセーバーの中から30名が選抜される大会。
その30人に自分が選ばれましたが、就職が決まっていたので断りました。
すると、オーストラリアから大会関係者が来日し、JTBと話をしてくれました。
特別に本社の広報室勤務に変わり、新入社員ですが月1回の転戦で世界を周りました。
憧れのプロの人達と同じレースに出た喜びもありましたが、もっと強くなりたい。
そして日本にライフセービングを広めたい。
その思いが強くなり、会社を退職してプロとして本格的に動き出しました。
プロアスリートになる時に1つだけ決めていました。
それは、アルバイトを絶対にしないことです。
バイトをしながらのプロ生活は、子供たちから見て夢も希望もないからです。
これからは早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で更に勉強をし、日本のジュニア、ユースの指導も含め後継者の育成に努めます。