褐色の肌がトレードマークのディナーショーキング

誰もが知る名曲“愛のメモリー”

日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、甲子園大会の入場曲にも選ばれた。

海外のマジョルカ音楽祭でも最優秀歌唱賞を受賞した。

その後、テレビにも出演し、スター街道を登り詰めた。

しかし、そこに至るまでは食えない時期が続き、悔しい思いもずいぶん経験した。

どのようにしてその時期を乗り越えたのか?

さあ・・・歌手、松崎しげる様の登場です!

 

「人生が変わった瞬間」

両親がモダンガール、モダンボーイで、小さな頃から家には常に洋楽が流れていた。

戦後の復興期で、まだ、東京に高層ビルはほとんど無く、何処からでも東京タワーが見れた。

まさに、“オールウェイズ3丁目の夕日”の映画が描く高度成長期の世界をリアルタイムで味わってきた感じかな。

中学、高校と野球漬けの毎日だったけど、怪我をしちまって……。野球で一流になる夢を断念したんだ。

その時から、自分が知らなかった“放課後”という時間ができた。

授業が終わって、クラスに数人の友人が集まってギターで歌ってた。乱入して、歌ってみたら、「高い声出るね。うまいね。」なんて言って褒めてくれたから、有頂天になって、どんどん音楽にのめり込んでいった。

大学は日本大学の芸術学部に入学。学生紛争が始まったばかりで授業がほとんど無く、よくジャズ喫茶を回って歌ったな。

当時2年間、僕のマネージャーをやっていた宇崎竜童さんがダウン・タウン・ブギウギ・バンドでデビューして、一気に売れていった。

一緒にバンドやってたメンバーもガロを作ってシーンの最前線に出ていったり。

それを横目で見て、自分だけ置いてけぼりを食らったみたいで、ずいぶん悔しい思いをしたよ。

僕はその頃、CMのメロディーソングを歌っていた。とにかく食えない時代だったね。友人の西田敏行さんも鳴かず飛ばずの時だったから、二人で酒をよく飲みにいった。

『愛のメモリー』もあちこちの会社に持ち込んだんだけども、どこの会社もこんな曲調だとヒットしないって言われたりさ。

そんな時、六本木で店を開いている先輩が声をかけてくれて、『なんか歌え』って助け舟を出してくれた。西田さんと一緒に弾き語りをしていたら、たまたま来ていたテレビ局のディレクターの目に留まって、『お前たち面白いからテレビに出ろ』ってオファーをもらったのね。しかも、土曜日の昼の12時から13時のゴールデンタイム。いきなりの話でビックリしたよ。

この番組のおかげで二人とも人生がガラリと変わったね。

『愛のメモリー』がお菓子会社のCMソングに起用されて、ガンガン売れて、レコード大賞を受賞して、紅白にまで出場したからね。

みんなにも辛い時期や、辞めたいなと思う時、色々な時期があると思う。

だけど、“あきらめない”これが一番大切だと思うね。

なんでもいいからチャレンジしてみてよ。

経験こそ何ものにも代え難い宝だと思うよ。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう