以前、東京のど真ん中、元ホテルニュージャパンに巨大な国際的社交場があった。
“ニューラテンクォーター”
そのナイトクラブと呼ばれる、巨大な社交場を作り上げた男がいた。
芸能人、政治家、経済人、外交官、皇族、そして、ヤクザまで。
毎晩のように日本の各界のトップが集まる場所。
“ニューラテンクォーター”そのものが、夜の昭和史であった。
ナイトクラブを通じて多くの人を楽しませ、そして伝説を作った男。
さあ、山本信太郎様の登場です。
「夜の昭和史~伝説のナイトクラブ~」
福岡から上京する時、父から「東京に行く以上は何でも良いから日本一になって来い」と言われた
博多駅には300人以上集まり万歳三唱。命を捧げる覚悟で上京
東京のナイトクラブは、博多の質を遥かに超えていて衝撃を受けました。
昭和33年僕が足を踏み入れた地、赤坂には何もありませんでした。
立地では負けるが、他のナイトクラブに負けないものは何だ・・・!?
それは、ショーでした。良いステージの噂を聞く度、すぐに世界各地へ飛び、スーパースターを呼び続けました。途絶えたら負ける真剣勝負の世界。
毎晩300人のお客様の好みや性格などを手書きで書き上げ、全スタッフで共有しました。
失敗は絶対に許されない。一切、気は抜けません。
いつも心掛けていたのは初心の心「本日、開店なり」の精神です。
元々音楽が大好きで、映画監督も夢に見ていました。
空間作り、スタッフ教育、生バンドの選曲、お客様とのやり取り、予想範囲のトラブル。
全ての仕切り役は僕。これはまさに毎日、映画監督の気分。
本能と本能がむき出しの世界の中で満足して頂き、高額なお金を支払って頂く。
まるで右手にメガホン。左手にそろばんですね。
仕事だと思ったら絶対に出来なかったでしょう。
そんな現場でゆっくりステージを楽しむ間なんてあるわけが無く、音楽好きの僕は後でゆっくり聞きたいと思い、当時のライブを録音していました。
そのテープが40年ぶりに、倉庫から出てきました。
夢に描いていたパティ・ペイジが来店した時のテープも出てきました。
戦後間もない時代、どうやったら成功するか、どうしたら日本一の店に出来るか、、それだけを考えて熱中していた日々。
40年経って美味しいブランデーと共にテネシー・ワルツを聴くと、やっと今初めてショーを見ている気分になりました。
この感動たるや・・・もの凄く感謝しています。
そして全ての苦しみが消えました。神様が僕にくれた大切なプレゼントです。