たった、60数年前・・
鉄の飛行機に乗り、鉄の固まりに飛び込む。
その鉄の飛行機には尊い命を乗せたまま・・『特別攻撃隊』たった、60年前のことだ。
この絶対に忘れてはいけない事実を、今日までに35万人の前で話し続けている男がいる。
歴史的、事実を風化させないため、今の若者たちのため、その男は、これからも語り続ける。
さあ、鳥濱明久様の登場です!
「特攻の母 鳥濱トメの物語」
黒い煙が絶え間なく吹き上げる桜島と海を挟んで、鹿児島市がある。
そこから車で1時間、どこまでも続くかのような山道の先に、「知覧」がある。
この町は、先の大戦で特攻攻撃隊の最大の基地があり、沖縄に上陸するアメリカ軍に対し二百五十キロの爆弾を飛行機に積み込み、敵艦に体当たりをする基地で、特攻隊員達は、ほとんどが二十才前後の若者でした。そんな若者達に、母親の様に親しまれた女性がおりました。
「鳥濱トメ」。私はその孫で鳥濱明久と申します。
トメは、出撃前の特攻隊員から、「本心を聞き、真の姿を見て、彼らが笑って出撃した訳ではない」と語り続けました。そして、私にもその真実を語り継いだのです。
アメリカ軍が沖縄戦の後、日本上陸する事は、軍どころか民間のトメ達も知っていました。
南九州だけでも、十二ヶ所もの飛行機基地があり、それを狙ってアメリカ軍は、南九州への上陸作戦を実行する予定でした。それを、阻止する為の特別攻撃隊の編成であったのです。
特攻隊員の一人「上原少尉」は、
「日本が負ける事。そして、この国を戦争に導いた指導者への批判。負けて自由な国になるのなら私は、命を捧げます」と、手紙に書き密かに報道隊員へ渡しました。「日本上陸があればお前達も守れない」と、妻や子を守る為に。そして、「若者達だけは行かせない」と、志願した飛行学校の教官「藤井中尉」は、特攻隊としては異例の二十九歳でした。奥様福子さんは泣いてすがり付きましたが、沖縄で引き留めなければと、藤井中尉の意志は固く、奥様福子さんは幼い二人の子供を胸に抱き「お先に行って待っております」と、荒川の土手から入水自殺をしました。
指先を切り裂き血染めの志願所を書き泣き叫ぶなか、妻と子の葬儀を終え藤井中尉は、この知覧へ転属、
教え子の隊長となり教え子の操縦する二人乗りの特攻機に乗り出撃沖縄洋上にて最後の電文が入りました。
「我、突入せり」と。
朝鮮人特攻兵「光山文博少尉」も「皆さんを、お守りします」と、最後の「アリラン」を歌い出撃。
愛する人を守る為に特攻隊の方々は出撃して行きました。でも、今でも笑って行ったと言われています。この真実は二度も映画化されました。そして、私も講演や講話を続けております。三十五万人の人に話をしてきました。
今、私達の世の中では三万人を超える自殺者がおります。命の大切さ尊さを、語り継いでいかなければなりません。
愛する人の為に、特攻出撃した多くの若者の為に。