カカオ豆から作る本物チョコレートの美味しさを広めるスゴい人!DAY1▶黒木琢磨様

LES CACAO シェフ・パティシエ 黒木琢磨様

  ぶれない自分 自分を信じる  

 

五反田に佇む小さなチョコレート屋、「LES CACAO(レ・カカオ)」。香り高いチョコレートを求める人の行列ができるお店である。20年前に大ブームを起こした名だたるショコラティエ達。その立役者の一つピエールマルコリーニ。銀座本店には何時間もの行列ができ、新製品を心待ちにするファンが熱狂した。当時そこのファクトリーの中で黙々と働いていたシェフ・パティシエが本日ご紹介する黒木琢磨シェフだ。彼がいかにしてチョコレート職人になったのか。その想いを2日間にわたりご紹介する。

 

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◆見どころ

―高級チョコレートとは無縁の子供時代

―東京へ憧れてパティシエの学校へ

―パリ修行へ

 

のびのびと育った子供時代

宮崎県宮崎市出身です。父方の実家は北諸県郡(きたもろかたぐん)という田舎町でしたので幼い時はそこで育ちました。近くにはショコラティエなんて当然無い、おしゃれなケーキ屋さえも無い時代ですし、畑や田んぼに囲まれた自然豊かな地域でのびのびと育ちました。田んぼでボール遊びをしたり、ザリガニ取りや防空壕の残骸に入ってこうもりを捕まえたりしていましたね。

地元の小学校に進みましたが、水泳を小さい頃からやっていたくらいでこれと言って何かスゴいものがある子供というわけではありませんでした。おやつもチョコレートなんて無縁で。親戚が畑をやっていたので、トウモロコシや芋がおやつだったんです。当時はそれが嫌でね、町に一軒しかない駄菓子屋で買ったおやつを友達が食べているのがとてもうらやましかったです。

水泳部で味わった悔しさと東京への憧れと

中学時代も水泳部だったので、学校推薦でスポーツ強豪校だった県立の工業高校に進みました。工業にはまったく興味がない子供で、水泳だけで進学したんですがその水泳部を1年で退部してしまったんです。簡単に言うと自身喪失です。宮崎県内全域から集められた、約100人いる水泳選手の猛者たちの成績はみな県内トップクラス。中学校時代に水泳部だったというだけの自分の実力では3年までやっていくのはとても難しいと考えました。一種の挫折に近いものがありましたね。かといって工業に興味があるわけでもないので、勉強に勤しむという風にもなれなくて、水泳部を辞めた後はアルバイトばかりしていました。カラオケ屋や新聞配達などをやって友達と遊んだりしていました。しかし高校3年くらいから進路について考えるようになって、ちょっと焦ったんですよね。周りの同級生は8割ぐらいの人がスポーツで入学してきていましたから、そのままスポーツで大学進学する人も多かったし、工業関係に進路を決める人もいる中で、自分はどうするんだと考え始めましたね。親には進学を進められましたが、普通科ではないので今から勉強するのではなかなか難しい。じゃ、専門学校を考えてみようとなったんです。手に職をつけるために料理の専門学校にしようと。それも東京に出てみたいという気持ちがあったので、高田馬場にある東京製菓学校に決めました。当時は特段チョコレートが好き!とかは無かったんですよね。逆に東京に来てからは水泳の経験を活かしてプールの監視員のアルバイトをやったりしたんですよ。ここで水泳が役に立ちました。

憧れのパティシエとして就職

東京学校では洋菓子を専攻しました。基本的なことは一からすべてここで学びました。2年後の1997年にシェ・シマという洋菓子店に就職しました。この時も僕は本当にマイペースで、皆が有名パティスリーに就職挑戦をしている中で、出遅れてしまって(笑)今も麹町にてパティシエ・シマというお店がありますが、結果的にこのお店でパティシエとして見習いデビューさせていただき、本当に良かった。先輩方から毎日たくさん指導していただきながら5年勤めました。当時のシェフは、若い頃にフランスに行かれて知識や経験を身に着けた方でした。その方について仕事をしているうちに自分も知らず知らずのうちにフランスのスタイルを学んでいたと思います。そのシェフには常々、海外に行って知識や経験を深めるといいよとアドバイスされていたのですが、当時の自分には遠い話のように思えていましたね。最初はただただ一生懸命にものづくりをしていたのですが、それでも少しずつ海外に興味を持つようになりました。日本とは違う環境でもっと学びたいと思って、資金を少しずつ貯めました。そして思い切ってパリに向かったんです。

観光ビザでパリに飛び込んで、自分を売り込み

パリでは言葉もわからないまま、辞書を片手に手あたり次第にお店を訪問して働かせてほしいと尋ねて回りました。当然ながら多くのお店に断られましたが(笑)。ホテルに滞在しながら限られた時間の中での就職活動でした。たまたまそのホテルのレセプションにいた女性が日本語ができる韓国人の方で、私が英語もフランス語もできないまま悪戦苦闘しているのを見て、「そんなんで大丈夫なのか」と心配してくれて。1か月くらいしてようやく働き口が決まりました。「STOHRER(ストーレ)」というお店です。今日僕のお店に日本語ができない外国人が急に訪ねてきて、雇うかと言われれば難しいですから、文化の違いがあるとはいえ本当にありがたいお話しです。
STOHRER (ストーレ)」は1730年創業のお店で、パリで一番古い、いわゆる老舗と呼ばれるお店です。流行に左右されることなく、クラシックなお菓子を作り続けています。パリ1区と2区の間のモントルグイユ通り(rue Montorguei)の商店街の中にあり、エクレアやシュー生地、パイ生地をベースにした洋菓子を地元の方が買いに来られる。そんな昔ながらのお店でした。洋菓子店ですが総菜コーナーもあって、そこはまた別のシェフが作っていたのですが。パリの本場で洋菓子修行というと、華やかで煌びやかなイメージとがありますが、僕の場合は少し、いえ随分違っていますよね(笑)後から聞いた話ですが、そのお店では最初にエクレアの上にかけるフォンダンがうまく塗れるか塗れないかでその人の仕事のレベルを見るらしくて。そういえば私も最初にそれをやらされました。そんなこんなで私としては念願の本場での職人修行の門戸が開いたわけです。 

憧れのパリへ単身で飛び込んだ

本場パリで重ねた幅広い職人経験

2年ほどして、もっと広い視野で洋菓子というものを学びたいと思うようになって、経歴を書いたレターを様々なところへ送りました。そのうちお返事をいただいたうちの一つ、パリ6区のサンジェルマンデプレ地区(Quartier Saint-Germain-des-Prés)にあるレストラン「la petite cour」へ転職しました。昔はミシュランの1つ星を獲ったこともあるレストランです。洋菓子はいわゆるコース料理のデザートとして、平皿のプレートに盛り付けます。ソースなどを使いながら見た目のデザインなども大変重要になりました。今までのパティスリーでは、お客様がテイクアウトをする前提で商品を作っていましたので、そこではいかに商品を長持ちさせられるかというのが課題でした。持ち帰りの際の振動や温度変化に耐えるためにゼラチンを多く使ったりもしていました。ところが反対にレストランのデザートプレートではその瞬間の美味しさを追求してお客様にお出しします。ですから溶けやすいアイスクリームなどの繊細な素材を使ったりするのにもワクワクしましたね。フランス伝統のデザートの作り方や盛り付けテクニックなどを年配の総シェフの方に教わりました。そのうち私自身の提案も採用されたりするなどもしてやりがいが出てくるようになりました。

シェフのエマニュエル・ゴメス氏とお客様と

 

 

(2日目に続く)

ライター:DEEN  取材・校正:NORIKO 映像:株式会社グランツ

 

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◆黒木琢磨(くろき たくま)氏プロフィール

宮崎県出身

東京製菓学校卒業後、シェ・シマ勤務。

パティシエ・シマのオープニングを経て渡仏。

パリの 7年間で「STOHRER」、ショコラトリー「Le Cacaotier」、「FAUCHON」など

パティスリー、ショコラトリー、レストランで勤務。

日本に帰国後、ピエール・マルコリーニのシェフ・パティシエを経て​201611月独立開業。

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