古今東西、今も昔も子どもたちを夢中にさせてきた特撮。80年代から90年代にかけて『メタルヒーローシリーズ』が登場し、人気を博していました。そんな憧れのヒーローのひとり、7作目の『世界忍者戦ジライヤ』の主演を務めたのが筒井巧さん。筒井さんはなんと忍術の宗家でもあります。役者と忍者の二足の草鞋で活躍している筒井さんの仕事や人生にについて伺いました。
思いやり
大阪から東京へ。迷いの背中を押したのは伝説のマネージャー
──芝居にはいつ頃から興味がおありだったのでしょうか。
興味を持ったのは高校生です。そして劇団に入り、大阪芸術大学環境計画学科に進学し、庭の設計をやっていました。大阪芸大には文芸学科とか舞台芸術学科もありますが、まだ役者1本でやるか悩んでいました。設計の仕事も面白かったんです。でも結局、4年の時、就職はしませんでした。
──劇団に入られてからわずか3年後にはテレビに出られていますよね。
その頃はまだエキストラみたいなものですね。大阪からテレビに出るってなかなか難しいんですよ。毎日放送の30分の枠や某刑事ドラマの枠が、大阪のマスコミの登竜門みたいなものでした。
──大阪で活動されていて、東京に来ることになったきっかけは何でしたか?
大阪NHKで『銀河テレビ小説』の枠がありまして。『まんだら屋の良太』という漫画原作の作品にキャスティングされたんです。その現場は東京の役者が多くて、大阪の役者は少数派。その時に東京に出たいと考えるようになりました。
主演の杉本哲太くんのマネージャーさんに「東京に一度行きたいんだけど」って相談したら、人を紹介するよって言ってもらえて。その時に紹介してもらったのが、プロデューサーの高橋康夫さん。三田佳子さんの旦那さんで、その後NHKエンタープライズのトップになられた方です。
──またスゴい方をご紹介されましたね。
そこで青年座に電話してもらったんですよ。そして当時凄腕のバリバリの有名な女性マネージャーに話を聞いてもらうことになりました。その人が、青年座映画放送株式会社の今の社長、石井美保子です。
渋谷で石井さんに会ったんですが、まず「言葉がおかしい」と言われました。当時大阪ですから、標準語に大阪弁が混ざった話し方をしてしまっていたんです。さらに、東京は大阪の10倍の役者がいる。仕事のチャンスは多くても募集だって多いんだから、そんなに甘いものじゃないと言われ、すごすご帰りましたね。
勢いついて上京。チャンスに恵まれた東京での暮らし
──そこで諦められたのですか?
様子を見に来ただけという段階だったんで。大阪に帰って、どうしようかうだうだ悩んで、1週間くらいですかね。石井さんから電話があったんです。上京するかまだ悩んでると伝えたら「あなたもう仕事入れたわよ」って言われたんです。
それが夜11時からやっていた『とまどいの日々』で、有森也実さんの恋人役でした。
久しぶりに見たら、めちゃくちゃ下手でしたね。言葉も直ってないんですよ。ヒドいものでした。
──スピード感がありますね。ご両親は応援してくださったんですか。
まずは事務所には預かり所属となりました。両親はまったく反対しなかったですね。自分が次男というのもありますし、兄が地元で教師になっていたので。自由にさせてもらって助かってます。
仕事は決まったけれど、まだ1本。住むところも決まってなかったので、また杉本哲太くんのマネージャーさんに相談しました。そうしたら、渋谷の仕事場のマンションは夜には帰って誰もいないから使っていいよと申し出てくださって。そこに住まわせてもらうことになりました。
昼は出かけて時間をつぶして、夜に戻る生活。本読みできる状況でもないし、大変でした。どれだけ道玄坂の喫茶店を周ったか(笑)。
そこで俳優仲間にアルバイトを紹介してもらいました。そしてバイト先の近くで住むところを探して、マネージャーさんのところを卒業することができました。
品川区の旗の台にある小さな台所がついた部屋で、共同トイレだったのが新しくトイレをつけたというのが売りでした。壁も薄くてプライバシーなんてなかったですが、初めての一人暮らしは、自分の城って感じてうれしかったですね。
バイトに行って、帰ってきて、洗濯物をコインランドリーに放り込む。その待ち時間に風呂に入って、出てきたら、洗濯物持って部屋に帰って、ビールを1本飲む。そんな一日が心地よかったんです。
上京して数カ月後。運命のオーディションがあった
──アルバイトを頑張られた時期は、レッスンなどはやはり大変でしたか?
舞台じゃなくて映画放送部の預かりなので、特に稽古はありません。所属というだけです。
上京してアルバイトを始めて、数ヶ月したら『世界忍者戦ジライヤ』のオーディションの話が来たんです。
書類選考に通って、銀座の東映本社に直接何度か足を運んで。そうこうするうちに最終選考まで残っていました。応募総数は3,000人くらい。その中の5人です。
──最終選考の内容はどんな内容でしたか?
面接で自己紹介をして、簡単な質問、あとは最後に得意なことを何かやるというものでした。自分の順番は4番か5番。全員が揃ってのオーディションだったので、一番手の人から何をやってるか見られるんです。そこで驚いてしまって。
というのも、他の人は空手をやったり、何か武術を披露するんですよ。しかもめちゃめちゃ上級者。全く自分には経験がないので、これはヤバいことになったと。
──『世界忍者戦ジライヤ』は、忍者がコンセプトですしね。武術未経験の筒井さんは何をご披露されたんでしょうか。
卓球です。
──卓球!?
得意なことって言われたんだから、アクションや武術じゃなくてもいいじゃないか!って考えまして。私、中高で卓球に燃えていたんですよ。審査員の前で、ひたすらエア卓球をやりました。
それがウケたんですよね。武術もできないしってウケを狙っちゃった。
──即時にご自分の売りを理解して見失わない判断力と度胸がおありですよね。とても勇気がいる選択ですが、結果的にオーディションに合格されたのですから、正しい選択だったんですね。
それしかないからね(笑)。
こんなので合格?って思うかもしれないけれど、意外にそういうものなんですよ。『世界忍者戦ジライヤ』は最初は弱くて負けちゃって、お父さんに助けられたりするうちに、成長して強くなるんです。
何も型がついていない方がいいこともある。型がついている人は、上手さや強さが出てしまうでしょう? その点、私には何もないから。
──まだ何もないことが才能だったんですね。
合格したのは、面白いっていうのはあったかもしれないです。アクションも経験はなかったし。
応募者が多いJAC(ジャパンアクションクラブ)にはできる人がたくさんいるから、アクションや武術は選考する側は見慣れているし、面白いやつと見えたんでしょうかね。
運良くウケて合格しましたが、もし順番が最初だったら、ウケなかったと思うんですよ。終わりの方だからオチになった。順番も運なんです。
──アクション経験が全く無いのに特撮の主演が決まったわけですよね。
合格してから、JACのレッスンと父親役の初見良昭さんの道場に行くように言われました。初見さんは本物の忍者です。9つの流派の宗家を務めていて、忍術の道場『武神館』を創設された方なんです。
──『世界忍者戦ジライヤ』の世界がそのまま現実になったようですね。歴史に残る全国区の作品に出られて、何か変わったことはありましたか?
全国区で知られたことよりも、撮影の大変さが記憶に残っていますね。1年間契約で仮押さえされていて、毎日6時〜7時朝に集合して現場に連れていってもらうんです。
旗の台から通うのは辛かったので、東映のスタジオがある練馬区の大泉に引っ越しました。
ただ、引っ越すと呼び出されたりするんですよね。近いから(笑)。
(明日へ続く)
インタビュー:アレス ライター:久世薫 映像制作:株式会社グランツ
◆筒井巧(つつい たくみ)氏 プロフィール:
大阪府出身。青年座映画放送所属。俳優であり声優。1988年、特撮ドラマ『世界忍者戦ジライヤ』で、主人公・山地闘破を演じたことがきっかけで戸隠流忍術第三十五代宗家を襲名。現在、宗家として活動しながら、役者としてもテレビや舞台と、幅広く活躍中。
オフィシャルブログ:『たくみの技』https://ameblo.jp/haiyuu-takumi/
◆出演情報
- 映画「スモーキー・アンド・ビター」2020年公開中
- 2020年11月21日「ソング・オブ・ラブ・アクチュアリー」リーディング公演LIVE生配信
- 映画「峠~最後のサムライ」近日公開
- 映画「龍帝外伝」近日公開