FAT BOY SLIM、DRAGON ASH、UNICORN、YMOなど多数の有名アーティストのリミックスを手がけてきたDJが本日登場する。
その活動は日本だけにとどまらず、世界約50都市でDJをプレイしてきた。
他にも、UNIQLOや資生堂など大手企業のCMにも楽曲の提供をしている。
彼の音楽に懸ける情熱とは?
さあ・・・FPM、田中知之様の登場の登場です!
「自分の感性を熟成させる」
中学の頃は放送部に所属し、友達から借りたレコードやFMラジオをカセットテープに録音したりして自分の好きな曲を流していました。
次第に演奏したくなり、初心者なりにバンドを結成しベースを担当しました。裏方的に一歩下がっているポジションが魅力的に思えたからです。
高校では廃部になっていた軽音楽部を復活させました。
この頃、なけなしの小遣いで買ったレコードが棚にたまっていくのが快感でした。
次第にロックからマニアックな音楽へと興味が移っていきました。土地柄もあってか、京都には独自の音楽が根付いていました。
スカパラが結成される前に、すでにスカのリバイバルがあったり、当時、見向きもされていなかったボサノバだけを流すBarや喫茶店があったり。
音楽が聴けるバイトとしてディスコ=マハラジャで皿洗いを始めたのがきっかけでDJという職業を知りました。
すぐに自分でもターンテーブルを購入し、大学のイベントでDJの真似事をしました。ミクスチャーバンドがまだいなかった時代にバンドの中にターンテーブルを取り入れたりもしました。
しかし、バンドブームが終焉を迎えるとともに音楽で食べていくことを諦めアパレル企業に就職しました。
それでも、やっぱり音楽が大好きで毎月の給料でレコードをごっそり購入。オタクDJとして自分の内側にこもって行きました。
へそ曲がりなのか誰も見向きもしない音楽に脚光を集めようと考え映画のサントラばかり流すイベントを始めたのが92年。
お客様は来ないが「世界中で俺たちが最高!」と勘違いしながら続けてました。
そんな時、ピチカート・ファイブの小西さんやディーライトのテイトウワさんに面白がって頂き、彼等がヨーロッパに行った時ベルリン、アムステルダム、ロンドンで「京都に面白い奴がいるよ。」と話してくれたのがきっかけで、世界中のDJが京都までわざわざ会いに来てくれるようになりました。
当時は『人の好みや世の中の流行など全く無視をする』を常に考えながら活動し自分の感性にフィットする音楽を探し続けていました。
一番多感な時期に自分なりのセンスを熟成させることが出来て本当に良かったと今でも思っています。
新しいアルバムを作成する前はあえて情報を遮断したりします。レコード屋さんに売ってないモノを作ろうと始めた活動なので、自分で作った音楽スタイルが受け入れられたりすると、嬉しい反面、居心地が悪いようにも思います。
世の中に無いモノを作り続けるのがボクの使命だと思っています。