ハンドボールに魅せられ、世界を目指す
致命的な膝の怪我。ハンドボールからの引退
世界で活躍する日本人の未来を切り拓きたい
ハンドボール強豪国、フランス。
そのフランスの中でもトップクラスのチーム・シャンベリーに、ひとりの日本人選手がいる。
幼少期にハンドボールに魅せられ、日本のハンドボール界で瞬く間にトップレベルまで駆け上がった彼は、致命的な膝の怪我により、一度はハンドボールから完全に身を引くことになる。
その彼が、どのようにして世界を舞台に活躍するプロのハンドボール選手になったのか。異国の地で友人も頼る人もいない中で、どれほどの挫折と苦難を乗り越えて今の地位を手に入れたのか。
その波乱万丈の半生を覗いてみよう。
さあ…
ハンドボール選手
土井 杏利様の登場です!
ハンドボールに魅せられ世界を目指す
小学校3年生の頃、兄と妹がやっていたハンドボールの練習を見学に行って試しにやってみたらハマってしまいました。
今まで全くやったことのないスポーツで、何より楽しかったのに全く点が取れなかったのが逆に悔しかったのです。
初めて点を取った時は本当に嬉しくて、今でも鮮明に覚えているくらいです。
僕の母はいい意味で変わった女性で、僕らが小さいころからずっと言われていたことがあります。
「あんたたち好きなことやりなさい」「やるなら世界を目指しなさい」と。
父も母も色々なことを子どもに挑戦させるのが好きで、僕らも挑戦するのが大好きになりました。
その中で、これだと思ったもので世界を目指すことが当たり前になっていきました。
高校、大学と確実に頭角を現していく日々
中学校時代は弱小で、僕一人で15点、20点を取っても負けるようなチームでしたが、高校に進学する際に先生が強豪の浦和学院に推薦してくれました。
周りからは活躍できるわけがないと言われましたけれど、厳しい環境に身を置かないと成長はないと考えたのです。
結果的には1年生の終わりにはレギュラーになりました。
その後、日本体育大学に推薦してもらって、そこでも2年生でメンバーに選ばれました。
致命的な膝の怪我。ハンドボールからの引退
順調に結果を残していたのですが、大学4年の初めに左膝を壊してしまいました。
注射をしながらプレーをするようになって、最終的に右膝も壊してしまいました。
その中で、最後の全日本総合という一番大きい大会で準決勝まで行くという快挙を成し遂げます。
でもその時には、両膝にテーピングを施しているような状態でした。
自分は実業団に行くと思っていて、実業団からもお誘いは来ました。
けれど膝の調子が悪くて膝の名医にも診てもらったところ、軟骨が破損していることがわかりました。
軟骨は破損するともう治りません。
その時は号泣しました。
決断するのが本当に難しかったのですが、ハンドボールが好きだからこそ中途半端にはやりたくなくて、ハンドボールから完全に引退することを選択しました。
語学を学ぶためにフランスへ。そこで起きた奇跡
今後何をするかと考えた時、僕はフランス人の父のおかげでフランス語がある程度話せるので、数ヶ国語を話せれば武器になると考えて、まずはフランス語を学ぶためにフランス留学をしました。
留学先には憧れだった世界のレジェンド、ステファン・ストックランの出身地であるシャンベリーを選びました。
ここで奇跡が起きました。
留学して約一か月後に膝の痛みがなくなったのです。
なぜかはわかりません。奇跡が起きたとしか思えない事でした。
そこで、趣味程度でいいからハンドボールをやりたいと思って、「どのチームでもいいからハンドボールをやらせてくれ」とクラブに直談判し、若手育成チームを紹介してもらいました。
そこでいいなと思ってもらえて、試合に出してもらえるようになりました。
帰国しようと思っていたところに舞い込んだ吉報
そこからは毎試合、活躍しました。
6月の終わりにはシーズンも終わって、フランス語も話せるようになったので、日本に帰るつもりでした。
そうしたら、電話がかかってきたんです。プロ契約させてくれと。
最初は驚きのあまり意味がわからなくて、だんだん手が震えてきて。
完全にシンデレラストーリーですね。
今となっては大学時代に膝を怪我したのも幸運だと思っています。
その膝の怪我がなければ、僕は今も日本の実業団でやっていたと思いますから。
僕が一番感謝しているのは父です。
僕が引退してからも、「ハンドボールやれよ」ってずっと言ってくれていたのです。
あの頃はできなくて当たり前だと思って、目標を立てていませんでした。
セカンドチームで結果を残せたのは、のびのびやっていたからです。
全部いい方向に働いたのだと思います。
3年目、再びどん底へ。その経験こそが自分を強くした
2年目まではうまくいったのですが、監督が代わって3年目でまたどん底を経験します。
シーズン前の準備期間に練習をしすぎて、体調を崩してしまったのです。
結果が出なくて、それにより精神的にも崩れてしまって。
スタメンも別のメンバーに取られてしまって、さらに落ち込みました。
そこから復活出来たのは、シーズンの半分が過ぎた冬に、オルテガ監督が僕のことを日本代表として呼んでくれたからです。
彼は僕のことを100%信頼してくれました。
信頼されると、いい結果も出るんです。
アジア選手権もいい結果を出して、世界選手権の切符も手に入れることが出来ました。
プロ4年目の時にはなんと!フランスのオールスターゲームにも出場できました。
苦しい中でも成長を見出せるという価値観の転換が大切です。
どん底に落ちた時に、楽しみを見出せるからこそ成長できる。
その経験がなければ精神力もこんなに強くならなかったでしょう。
人種差別のことも含めて、日本にいたら学べなかったことです。
世界で活躍する日本人の未来を切り拓きたい
僕が海外でプレーし続けるには理由があります。
今、若手は海外に渡る時期だと思います。
そして、僕らが切り拓いた道を次世代に繋げていく必要があると考えています。
日本代表に入ったことのなかった僕が、これだけ海外で活躍できているということで、若い子たちも夢を見られるようになります。
今まではその夢が遠すぎたのですね。
でも僕を含め、銘苅さんや石立さんなど、結果を出してきた人が増えてきたことで海外に挑戦しようと思う若い子たちが増えています。
僕が海外で活躍し続けるということは、彼らの希望であり続けるということなのです。
取材を終えて・・・
常に過酷な環境に身を置き続けることができる土井選手のハートの強さは、やはりご両親の教育だと思った。
お母様は千葉県に生まれ育ち、このまま千葉の田舎で終わるのは嫌だとフランス語を習い、単身フランスへ飛びフランス人の旦那様と知り合い、一緒に帰国されたという。
そしてお父様は、千葉でイタリアンレストランを経営されている。
お兄様はカートの選手となり、今は家業を継いでいる。
妹さんは同じくフランスに渡り、現在エルメスのデザイナーをされているそうだ。
兄弟みんなが自分の能力を大いに発揮されている。
世界トップクラスで戦っているが、まだお母様は試合を一度も観に来ていないそうだ。
土井選手の1つの夢は、お母様が試合を観に来てくれる事だという。
きっと近うちに叶うであろう。
プロフィール
土井杏利(どい・あんり)
1989年9月28日 178cm/74kg
所属チーム:シャンベリー(フランス1部リーグ)2013年〜2017年
シャルトル 2017年7月〜
ポジション:LW(左サイド)