天皇賞、プロ野球日本シリーズ初戦の国歌独唱で日本を圧巻したテノール歌手のスゴい人!

プラシド・ドミンゴとの出会い

イタリア人になると決めた

バチカンより日本へ祈りのレクイエム

今日のスゴい人は、イタリアで22年間テノール歌手として活躍するスゴい人。
2013年には天皇賞、2015年にはプロ野球日本シリーズ初戦において国家独唱で日本を圧巻する歌声を披露。
2013年より、バチカンからはじまった東日本大震災復興音楽支援コンサートのプロデューサーとして世界の祈りの中心のバチカンと日本の架け橋として活躍。
オペラの本場イタリアでどのようにして22年間テノール歌手として活躍してこられたのか?

さあ…
テノール歌手
榛葉 昌寛様の登場です!

プラシド・ドミンゴとの出会い

静岡の掛川で、自然に囲まれて育ちました。
小学生の頃から、歌うことや人前で何かするのが好きで、地元の納涼大会などで歌っていました。
高校では、ミック・ジャガーになりたくてロックばかりしていました。
ミック・ジャガーになれないなら、忌野清志郎さんになりたいと思っていました。
高校を卒業して一浪した時に、予備校をサボって映画を観ようと思ったのですが、観たい映画が1本もなくて、たまたま観たのが 「椿姫」だったんです。
見終わった瞬間に、プラシド・ドミンゴになりたいと思いました。
こんな豪華な音楽がこの世にあるんだと感動したんです。
その瞬間からミック・ジャガーより、忌野清志郎より、プラシド・ドミンゴになろうと決めました。
さて、どうしたらプラシド・ドミンゴみたいなオペラ歌手になれるんだろうかと思い、予備校の友人に聞いたら、やはり音楽大学に行くべきだと言われて、親に相談しました。
「貴方、そんなバカみたいなことは言わないで!でもどうしても音大に行くなら東京藝大だったら許してあげる」と母親が言ったんです。
そこで、東京藝大に入ろうと決意しました。
当時、普通の音大は年間200~300万円かかるのですが、東京藝大は30万円くらいだったんです。
ただ、入学は難関でした。
東京藝大に入ろうと決めたのが10月。
翌年に受験し、最終試験で落ちたので次の年に再受験するまでの1年間、もともと教員になる予定でしたので地元の教育大学に通いながら受験勉強をしました。
翌年、東京藝大を受験して無事に入学できました。
大学時代には、常にオペラ歌手になるためにはどうしたらいいかだけを考えていました。
大学の4年間に両親は一度も私に会いに東京には来ませんでした。
それは、新幹線代があるならレッスン代に回してくれたんだと思います。
両親には本当に感謝しています。

イタリア人になると決めた

大学を卒業したら、イタリアに留学。
イタリアでコンテスト受賞など、様々なチャンスをどのようにモノにするかを胸にイタリア留学しました。
当時はインターネットもなく、情報も無い中でイタリアに渡り、最初の6ヶ月は電話もつかえない、言葉もわからない状態でしたのであの時はつらかったです。
オペラはイタリアの文化そのものであり、プラシド・ドミンゴになる為にどうすれば良いか考えた結論、その時から日本人コミュニティとの関わりをさけ、イタリア人になろうと決意しました。
イタリア人がどのような食事をするか、食べ方をするか、生活自体も真似をするようにしてきました。
留学からそのままイタリアに渡って22年間、現在までミラノを拠点としてイタリア人として日々生活しています。
日本に帰国する時には日本語を使いますが、イタリアにいる際には全てイタリア語で話をしています。
イタリア人と徹底的に向き合い、日本人として一緒に築いて行くことが大切だとの信念で、プラシド・ドミンゴになりたい自分を貫いてきました。
イタリアでは、毎日が冒険のようでした。
一番強烈に覚えている1日は、初めてイタリアで世界的ソプラノ歌手フランチェスカ・パタネさんのコンサートの舞台に出た途端に、ブーイングをあびました。
ブーイングの理由は、イタリア人ではなく日本人だということでした。
ブーイングの中、悔しいので、これでもかといつもの何倍も高音を伸ばして歌い終えましたが、最後も「ブー」というブーイングでした。
それが最初で最後のブーイングでしたが、オペラを歌うという洗礼をうけた忘れられない1日でした。
オペラ歌手として、夜寝る時にはマスクをして寝ることを習慣にしているくらいです。
イタリアでは歌うことが生活と共にあるので、特別なことはほとんどしていません。

バチカンより日本へ祈りのレクイエム(東日本大震災の鎮魂と復興祈念コンサート)

イタリアから何か日本の被災地の為にできることはないかと考えて、世界の祈りの中心であるバチカンから鎮魂の祈りと日本への元気を発信したいと私が企画して、2013年よりコンサートを始めました。
バチカン政府がその想いに賛同くださり、共に寄り添い、コンサートの応援、そして日本への愛を注
いでくださっています。
それから毎年3月11日にバチカンで日本への鎮魂の祈りのレクイエム(死者の安息を神に願うミサ)復興祈念コンサートが行われています。
2015年、2017年、日本でチャリティコンサート行いましたが、枢機卿も来日くださり、今まであまり日本をご存知なかった枢機卿が日本の素晴らしさを多く知っていただき、特に「あの大震災のような困難、逆境にあっても自分で希望や目的を見つけ立ち向かう精神は日本人でなければ持つことができないこと。だからこそ応援をしたい」とおっしゃってくださいました。
本当にありがたいことだと思っております。
ぜひ日本の方に、毎年3月11日に日本への祈りのレクイエムと東日本大震災の鎮魂と復興祈念コンサートをバチカン行っていることを知って欲しいと思います。
今日本でクラッシックやオペラなどを勉強している若い方は、ぜひ海外に出て活躍しようという志を持って欲しいです。人生をかけて世界に羽ばたいて挑戦してほしいです。
私もオペラを通してイタリアと日本のご縁をつなぐ架け橋となりたいと思っています。

取材を終えて

予備校時代に初めてドミンゴさんを知り、今までクラシック音楽を勉強されたこともないのに、たった1年で東京藝術大学にご入学されるなんて、物凄い努力と類い稀な才能をお持ちのスゴい方だと驚愕しました。
イタリア文化であるオペラを歌われるために生活そのものもイタリア人になられている榛葉先生の本気や覚悟にも感動しました。
何かになりたいのであれば、本気と覚悟が本当に必要だと痛感しました。

プロフィール

榛葉 昌寛(しんば・まさひろ)

1966年 静岡県掛川市生まれ。東京藝術大学卒業。
    国際ロータリー財団奨学生として国立ミラノ・ヴェルディ音楽院にて学ぶ。
1999年 テーラモ市立劇場「椿姫」アルフレード役にてイタリア劇場デビュー。
2000年 日本人初のマリア・カラス賞を受賞。
     日本でも話題を呼んでいるフィリッパ・ジョルダーノと共演する。
2013年 秋の天皇賞、約10万人の大観衆を前に国歌独唱。
2013年から毎年バチカンから日本ヘレクイエム〜
     東日本復興支援コンサートのプロデューサーとしてバチカンと日本の架け橋となる。
2015年 プロ野球の日本シリーズ開会式で国歌独唱。
2017年 EPSPレコードと日本人初契約。
     グラミー賞受賞者ビル・ラズウェルのプロデュース「復活」発売。

◆榛葉昌寛公式HP http://www.masahiroshimba.com/

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