元メジャー映画配給会社の営業統括部長。映画ビジネスを知り尽くすスゴい人!山口和浩様▶DAY1

経理部員からスタートし、場末の映画館支配人、チケットセールスを経て邦画配給に従事。やがてシネコンの心臓部である番組編成を担当。そして世界的メジャー配給会社ソニー・ピクチャーズで営業統括部長として業界にその名を轟かせた――。マリブコーポレーション代表取締役の山口和浩氏のキャリアは、決して華やかな道のりではなかった。剣道で培った「成せば成る」の精神で、挫折と下積みを乗り越え、ハリウッド映画への夢を追い続けた結果、映画ビジネスのウラもオモテも知り尽くす映画人となった。60歳で独立した今、次世代への知見の継承と、シニア世代の活躍の場づくりに情熱を注ぐ。その波乱万丈の半生と、映画業界への熱い思いを語ってもらった。

夢見る大人を増やしたい

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DAY2

少年時代と剣道 - 「成せば成る」の精神と最初の挫折

小学三年生で始めた剣道。六年生では大将を任され、団体戦をけん引した。

出身は茨城県の水戸で、少年時代はまあどちらかというと、“俺様”みたいなタイプでした。小学三年生の頃から剣道場に通っていまして、先生からずっと「成せば成る、成さねば成らぬ、なにごとも」という厳しい教えを叩き込まれていたんです。狙うんだったらてっぺんを目指そうということで、自分なりに努力を重ねて、六年生の時の全国大会で、団体戦の最後に戦う“大将”のポジションを任されたんですね。所属していた道場は前年までずっと優勝していた強豪で、しかも会場がたまたま地元の水戸だったこともあり、絶対に負けられないっていう、ものすごいプレッシャーを感じてしまって。結果、優勝できなかったんです。勝って当たり前の雰囲気がありましたから、責任を強く感じましたし、幼少ながら、「努力すれば自分が望んだことは絶対達成できる」っていうふうに思っていたのが、「あ、違うんだ」と。努力に努力を重ねてポジションを掴んだんですけど。今思うと、それが人生最初の挫折だったと思います。中学、高校時代も道場通いは続けて、毎日朝稽古をしてから登校。選抜メンバーに選出されてからは、放課後練習も加わり、勉強と剣道漬けの学生生活を送っていました。そこで頑張っていたことは、人格形成においてすごく重要なポイントを占めているように思います。

ビートルズに夢中、映画への扉

学生時代、ハリウッド映画に夢中に(画像は『ビッグ・ウェンズデー』)

剣道の稽古に明け暮れていた学生時代、息抜きだったのがテレビで映画を観ること。当時は、金曜ロードショーとか、水曜ロードショーとか、毎日のように放映していましたから。邦画よりも洋画、特にハリウッド映画が好きでした。これが今のビジネスにもしかしたら繋がっていたのかなと思うんですけど、中学、高校時代にリバイバルで、『レット・イット・ビー』(1970年)を皮切りに『ア・ハード・デイズ・ナイト』(1964年)とか『ヘルプ!』(1965年)といった、ビートルズのドキュメンタリー映画が上映されていたんですね。中学に入って洋楽に目覚めていた時期でもありますので、ビートルズってかっこいいなと思っていたところで、彼らが出演する映画を観て、夢中になりました。大学卒業後の就職先は、映像関係の仕事に携わりたいと思い、採用試験はテレビ局、広告代理店など受けられるだけ受けたんですけど、残念ながらどこも落ちてしまい、たまたまご縁があったのが、映画会社の松竹でした。

映画業界での下積みとキャリアの模索

大学生時代は会計学を学ん

松竹入社後、最初に配属されたのは、なぜか経理部でした。大学のゼミナールが会計学で、簿記2級は持っていましたけど、決して希望していたわけではないので、「なんで、映画会社に入って経理なんだ?」っていうのがあって、これもある意味、挫折かもしれません。同期入社は20名ほどいて、映画の監督候補生や演劇のプロデューサー候補生もいましたし、宣伝部など花形部署に配属になる者もいましたから。経理部在籍期間は2年で、その間は数字のマネジメントをする、会社にとって必要な仕事だなと自分を納得させながら、映画配給やビデオ、今で言う“パッケージ”の経理処理などに携わっていました。結果的に、そのときの経験がのちのちの仕事にプラスになっています。経理部から異動したきっかけは、入社2年目の時に、配給の責任者にやる気を訴えたのが効いたんじゃないかと思います。当時、我々の業界では映画のことを「写真」と表現していて、「活動写真、僕が売ってきます!」とアピールしました。「じゃあ、やらせてみるか」と会社が思ってくれたのかはわかりませんが、経理からは異動できたんですけど、「映画館を経験していなかったら、配給のセールスなんかできないから」と言われて、横浜・伊勢佐木町にある、松竹の直営館ではない一般の方が経営している、あまり盛況だったとは言いがたい場末の映画館に出向し、派遣支配人として働くことになりました。

 

場末の映画館支配人として、バブル期の光と影を見つめた2年間

多忙な日々、趣味のサーフィンが息抜きに

支配人は運営の責任者なので、仕事は多岐にわたり、もう何でもやらなきゃならない。窓口に入って切符も切りますし。窓口に入っていると、まれに大学の友達とかも遊びに来るわけですよ。「お前、なんでここにいるの?」なんて驚かれたりもしました。そこのオーナーが必ず日曜日に顔を出すんです。映画館の敷地内には同じオーナーが経営する立ち食いそば屋さんがあって。映画は洋画と松竹映画の2つを上映していたんですが、オーナーからは、「そば屋の売上のほうが映画のそれより多い」とずっと聞かされていました。そば屋さんには、映画を観に来るお客さんはもちろんですが、ご近所で働く方々、なかには、ほど近くにあるハローワーク(公共職業安定所)で仕事を探している方々などもよく食べに来ていましたね。時は80年代後半から90年代前半のバブルの時代で、都心では羽振りの良さそうな人々が闊歩してキラキラしている。なのに、「俺はここで何をやっているんだろう」などと思いながら過ごすこともありました。ここでの勤務も2年間で終了し、次は本社に戻されて、チケットセールス部門に異動しました。プレイガイドやコンビニエンスストア(CVS)に紙のチケットを卸す仕事です。アタッシュケースに本物のチケットを数万枚入れて、CVSの本社に納めるわけです。そして映画の上映期間が終了すると、「残ったチケットを返却するので数を数えに来てください」と連絡が来て、銀行員のように一枚ずつ数える。映像をやりたいと思って入社したのに、「これが仕事っていうものなのか」などと思いながら、それも一年半ぐらいやって、ようやく28歳の時、晴れて自分が望んでいた映画配給のセールス部門に異動することができました。

念願の配給セールスへ、野に放たれた日々

「よし、やるぞ!」とやる気をみなぎらせたのですが、驚いたことに、前任からの引き継ぎも何もない。出張旅費を十数万円と時刻表をぽんって渡されて、前任者の売掛金の帳簿をもらって「はい、うちの作品売ってきて。決まるまで帰ってこなくていいからね」といった具合でした。文字通り、野に放たれる、そんな感じでした。当時、シネコン(シネマコンプレックス)なんかなかったので、各県の主要な映画館一つ一つに出向いて、自社扱いの映画を売り込むわけです。「寅さんの正月映画(『男はつらいよ』)お願いします。この作品もお願いします」といった具合で、自社の作品をいかにたくさん扱ってもらうかが勝負ですから。扱う作品はすべて観て、善し悪しを把握したうえでセールスする。そうした経験を積むうちに、映画の実力といいますか、この作品ならこれぐらいの収益が上がるといった経験則も磨かれていきました。その後、松竹在籍中は配給のセールスにずっと従事していたのですが、1999年にワーナー・マイカル(注:タイム・ワーナーグループとマイカル(旧ニチイ)との合弁会社)に転職しました。いつかはメジャーのハリウッド映画を扱ってみたいっていう夢があったんですが、松竹は伝統ある邦画中心の会社で、難しいですから。また、単館からシネコンが主流となってきていて、シネコンの番組編成をやってみたいという思いもありました。番組編成とは、上映プログラムを作ることが中心業務ですが、「観客動員最大化のための戦略的な編成」「マーケティング分析」「他部署や配給会社との調整」などを含む、映画館運営の心臓部ともいえる役割なんですね。たまたまご縁があって、35歳での転職でした。

シネコン黒船ワーナー・マイカルで、業界の古い慣習に挑む

転職する際は、ワーナー・マイカルの本社でマイカル出身の方との面接だったんですが、「あなたたちとは違うから」「全部こっちの色に染めるから」っていう、経験値のあるプロフェッショナルとしてアピールし、強い自負を持って入社しました。中途入社した99年、横浜に「ワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい」がオープンします。近隣に直営館を持っていた他社にとっては強力なライバルになりますよね。それまでのワーナー・マイカルは1号店(神奈川県海老名市)を始め、郊外の都市への出店が中心だったんですが、遂に大規模都市圏に進出したとあって、当時の映画興行界では、黒船が本丸に攻め込んできたという受け止め方で、業界内で「あそこ(ワーナー・マイカル)には番組を出すな」といった空気が作られました。なので、オープン当初は封切り作品がまったく上映できずで、やむなく単館で上映が終了した作品をかけたりしていたんですけど、新作でなくても、ワーナー・マイカルで上映すると、単館で上映していたときの2倍ぐらいの観客動員になるんです。この数字を見せつけられたら、配給会社も対応を変えざるを得なくなりますよね。設備のいい映画館で、ちゃんとした環境でお客さんに観てもらえれば、映画は捨てたもんじゃないっていうのを知らしめたくて。古い商慣習なんて必要ないと。今思えば、調子に乗っていたわけでないですけど、鼻っ柱が強いときではありましたね。

(2日目に続く)

取材/アレス(副編集長) ライター/長澤千晴 動画/村上倫弘(グランツ) 撮影/守安法子(編集長)

山口和浩氏 プロフィール:

1963年生まれ。マリブコーポレーション代表取締役。大学卒業後、松竹に入社し、劇場映画担当、映画配給部門として活躍後、ワーナー・マイカルで上映番組編成を担当。その後、ソニー・ピクチャーズでハリウッド映画等の配給を担当し、会社の顔である営業部長、営業統括部長を歴任。60歳の定年を機に2023年に独立し、現職。映画配給・宣伝プロデューサーのほか、人材開発、ビンテージカー販売まで手掛ける

マリブコーポレーション公式サイト:https://malibu-corp.com/

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