
未経験にもかかわらず、日本が誇る超人気アニメ「ドラゴンボールZ」に大抜擢され、脚本家デビュー。以来30年にわたって、「ドラゴンボールGT」、「セーラームーンセーラースターズ」、「フレッシュプリキュア!」、「名探偵コナン」等々、名だたるヒット作品を中心に第一線で活躍されてきたのが、脚本家の前川淳氏。定評ある大人気漫画を担当するとなると、原作者、プロデューサー、とりわけ熱いファンの期待に応えねばならず、そのプレッシャーは並大抵のものではないはず。そうした中、一本一本実績を重ね、鳥山明先生ほかレジェンド漫画家たちに認められてきた氏。その仕事への思いを語ってもらった。
迷ったらGO!
本日の見どころ▶奇跡のデビュー ― 「ドラゴンボールZ」で脚本家人生が始まる▶妻の支えと二足のわらじの努力▶夢を諦めず挑戦を続けた人生
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DAY1
デビュー30周年の節目に起きた感慨深い出来事
脚本家としてデビューしたのは、1995年。「ドラゴンボールZ」の第257話でした。ちょうど今年がデビュー30周年ということで、30年前の放送日と同じ2月22日に、知り合いのお店に友人や関係者たちが40人ぐらい集まってくれて、お祝いをしてくれました。嬉しいことに、今、東京MXで「ドラゴンボールZ」を再放送しているんですね。もちろん過去にDVDやブルーレイも発売されていますし、配信もありますから見ようと思えば見られるんですが、やはり地上波でやっているというのはちょっと気持ちが違う。ちょうどデビュー30年目の節目の年に、地上波でその作品が放送されているというのは感慨深いものがあります。さらに驚くような偶然があって。僕が書いた第257話の東京MXでの放送日が、僕の35回目の結婚記念日だったんです。外出中で、放送自体はリアルタイムでは見られなかったんですが、帰宅して録画した番組を見たとき、30年前、初めて自分の名前が載ったクレジットが画面に流れてきた瞬間、それを妻と二人で並んで正座して見た日のことを思い出しながら、感激に浸りました。

結婚記念日に30年前のデビュー作が地上波で放送される奇跡!
サラリーマンと脚本家の二足のわらじを履く多忙生活
デビューしたのは結婚5年目のことです。そのときは小さな化粧品会社でサラリーマンをしていました。何ら保証のない、引き続きオファーがあるかもわからない世界ですし、既に結婚して子どももいましたので、すぐには会社を辞められずで。結果的に4年間、サラリーマンと脚本家の二足のわらじで過ごしました。その間に、「ドラゴンボールZ」や「セーラームーンセーラースターズ」を書いていました。日中は化粧品会社での仕事がありますから、脚本家としての仕事は平日夜に打合せして、土日に執筆する。当時は子どもが小さかったので、妻が気を遣ってくれて、執筆に集中できるよう、子どもがグズったときは公園に連れ出してくれたりしました。妻は専業主婦でしたが、本当なら土日こそ僕が子どもの面倒を見なきゃいけないのに、すべて任せきり。そうした協力がなければ続けられなかったと思うので、妻には頭が上がらないですね。

サラリーマンだった22歳の頃
漫画家を断念。でもストーリーを考えることは好きだった

漫画を描くことが大好きだった小学6年生の頃
小学生の頃は漫画を描くのが好きで、教室の廊下に張り出すクラスの学級新聞に四コマ漫画を描いていました。その頃は漫画家になるのが夢でした。そこで、高校では漫画研究部に入部するんですが、先輩とか画力の優れた人が周囲に多くて、僕ぐらいの実力ではとてもプロにはなれないと悟り、その夢は諦めました。ただ、ストーリーを考えるのは楽しかった。その後、映画監督になりたいと思って、ひとまず大学受験はするんですが、落ちて一年浪人したあと、二年制の映画専門学校に進学しました。卒業後は医療系のPR映像の制作会社を経て、ドラマの助監督に。ですが、当時はコンプライアンスなんて概念がなかった時代ですから、殴られこそしなかったものの、パワハラは当たり前で、人の扱いをされない。結果、精神的に参ってしまって、半年も続かずに辞めてしまいました。

高校時代は漫画研究部に入部
大きな転機となった妻の勧め
次に入った制作会社では、現場での作品づくりではなく、スケジュール管理やタレントのマネジメントなどの制作進行業務に従事しましたが、バブル崩壊に直面してしまい、あえなく倒産してしまいました。当時もう結婚していて、翌年には子どもが生まれるっていう時だったので、無職というわけにはいかず、ここだったら就職できるっていうところが、その会社の系列の化粧品会社しかなかったんですね。そこで、その会社にお世話になるんですが、立場は違えど、ずっと映像にかかわる仕事をしてきましたから、化粧品会社の仕事は“生活のために仕方なく”という面が強かった。と同時に、それは映像の仕事を諦めるということを意味する。自分では「家族のために夢を捨てた」みたいなオーラは出していないつもりだったんですけど、どうも妻には伝わっていたみたいで。妻がある日、シナリオ学校の広告を持ってきて、「こういう学校があるみたいだけど、通ってみたら」と勧めてくれたんです。その学校は通学と通信があったのですが、働きながらなので、通信で習い始めました。課題が出されて、書いたものを送ると、先生が添削して送り返してくれる。ただ、このときの僕は正直、プロになれるなんて思ってもいなくて、逆説的な言い方ですが、自分の夢を諦めるためにやっておこうみたいな感覚でした。やるだけやったと、自分の気持ちに踏ん切りをつけるためにやる。
人生を変えるきっかけになった夏合宿での経験
添削された先生のコメントは基本いいことばかり。褒めちぎってくれるんです。「僕ってスゴイのかも」って勘違いしますよね(笑)。習い始めて約半年。その学校では夏合宿があって、そこで初めて他の生徒たちとリアルで顔を合わせるんです。合宿中、即興でストーリーを書くという課題が出たんですが、僕は全然できなかった。一方、周りの生徒たちはすらすらと書いていて、自分がいかに“井の中の蛙”だったかを痛感させられました。自分の気持ちに踏ん切りをつけるために習い始めた学校ですが、これは通わなきゃダメだと。同じ志の人たちと一緒の空間で切磋琢磨しなきゃダメだと、気持ちに火がついた。そこで、妻の理解も得て、通学に切り替えることにしました。そして翌年の夏合宿の特別講師に、東映アニメーションの「ドラゴンボール」のプロデューサーがいらしたんです。合宿前の特別授業にもそのプロデューサーが来られて、生徒たちにアニメの企画の募集をかけたんです。約40人の生徒が企画を書いて提出。その発表と講評の場が夏合宿でした。そこで運よく僕の企画が選ばれたんですね。家族で変身する戦隊ものの企画だったんですが、もともと漫画家志望だったから、キャラクターのデザインの絵も添えて。その後、企画書のブラッシュアップのために東映動画(現東映アニメーション)に通うことになりました。打合せのあとは必ず飲みに連れていってくださいました。結果、その企画は日の目を見ることはなかったのですが、最後に飲みにつれていっていただいたときに、そのプロデューサーから、「ドラゴンボール書いてみるか?」とおっしゃっていただいて。今でも覚えていますけど、トイレに行くふりをして、居酒屋の入り口にあったピンクの電話で、妻に「ドラゴンボールを書けるかもしれない」って連絡しました。
異例中の異例!「ドラゴンボールZ」でデビューの衝撃
そういう意味ではすごくラッキーな形でのデビューでした。コミックの発売元である集英社の担当者に会ったとき、「ドラゴンボールでデビューするなんて、まずありえないことだからね」と言われました。実はそのころ僕は「ドラゴンボール」の原作漫画も読んでなければアニメも観たことがなくて、プロデューサーからはひどく呆れられたんですけど、さすがに見ないと書けないから、全部読むことに。原作は41巻で終わるんですけど、当時まだ連載が続いていて、単行本が30何巻か発売されていたので、それを全部読む。さらにアニメは、僕は第257話の担当だったので、その前の256話分の脚本にすべて目を通す。それを2週間ぐらいでやらないといけない。受験前の一夜漬けみたいに、常に何冊か持ち歩いて、空き時間にひたすら読み続けました。
2DAYへ続く
前川淳氏 プロフィール:
1964年生まれ。1995年に「ドラゴンボールZ」で脚本家デビュー。以来、子ども向けアニメを中心に活躍。代表作に「デジモンアドベンチャー」、「魔法戦隊マジレンジャー」、「名探偵コナン」「HUNTER×HUNTER」など。2025年に脚本家生活30年を迎えた。シナリオ・センター出身。日本脚本家連盟理事




