「追い風に帆を上げる」という言葉があります。いい風のときにうまくいくという意味です。ですが2013年にヨットで太平洋横断を試みた岩本光弘さんの人生は、けっして順風満帆ではない人生を歩んできました。幼いときから徐々に光を失い「いつか全盲になる」という恐怖を抱え、心が折れそうな時期を乗り越えてきた岩本さん。どんな風が吹いたとしても、人生の船に帆を掲げ続ける。そんな挑戦を重ねてきた全盲のヨットマンであり、ライフコーチでもある岩本光弘さんに、見えない目で見た光を教えていただきました。
絶望は必ず希望へと変えられる
飛んできたボールが受け取れない。徐々に失う視力を嫌でも実感させられる日々
──子どもの頃のお話を伺えますか。
幼い頃は弱視でした。まだ眼鏡をかけていれば普通の小学校にも入れるくらいの視力があったので、親としては悩んだそうです。普通の小学校で学ぶか、盲学校で学ぶか。悩んだ結果「よりしっかりと見えない環境でも学べるだろう」と盲学校に通うことになりました。小学校の頃は野球ができるくらいには見えていました。
──16歳で視力を失われたとのことですが、急に悪化したのでしょうか。
いえ、13歳からゆっくりと3年かけて見えなくなっていきました。やっぱり怖いですね。最初に視力の衰えが始まったと気づいたのは野球でした。飛んでくるボールが見えず、拾えない。「お前は敵のチームを勝たせたいのか」とチームメイトに言われたのは辛かった思い出です。でも見えないとは言えないんです。自分が見えなくなったことを受け入れることになる。なかなか自分が『見えない』という事実を受け入れることはできなかったです。
──自分で受け止めるまで、当然時間がかかりますよね…
それから暫くして、自転車に乗っていてもあちこちにぶつかるようになりました。それでもまだ認めたくないと乗り続けるんですが、そのうち弟が横に並んで自転車を走らせるようになりました。弟は僕の目が見えなくなってきていることに気づいていました。僕が見えなくなったと言えないことも察して、一緒に自転車を漕いでいました。
目が見えない自分を受け入れられず、母が用意した白杖を投げ捨て、死を選ぶ
──見えないことを認めたくなかった強い思いがあったんですね。
そのうち歩いていても転ぶようになりました。あるとき、階段から落ちて膝から落ちて血だらけになって帰りました。当然、母親は心配するんですが、それでも落っこちたとは言えない。そんな僕に母は白杖を用意してくれました。危ないから持たせたい、怪我をさせたくないという母心ですよね。だけど当時の僕はその母の気持ちがわからず「お前は見えないんだから早く受け入れろ」と言われたような気がしました。白杖を僕は投げつけたんです。「なして俺ば、産んだ」って天草弁でね。言ってはいけないのと思っていたけど言ってしまった。
──一番多感な時期で大変辛かったかと思います。
言ってしまった後悔はあります。でも言ってしまったことはもう戻らない。そしてある夜、歯磨きをしようとして、歯磨き粉がボトッと落ちました。つけ直そうとしても今度は指につく。歯磨き粉を自分でつけることができなくなったんです。歯磨きすらひとりでできない自分がそこにいました。その頃は繰り返せばできるようになるとは思えない。もう一生できないと思ってしまっていた。自分の存在自体が誰かの迷惑になる。こんな人生になんの意味があるんだろう。死んだ方がマシだと海に身を投げようとするわけですね。
──それほどの辛さだったということですよね…
家から近い欄干で手をかけました。足を置いて飛び越えようとするんだけど、越えられないんです。両手に力が入るのに右足に力が入らない。何度も何度も繰り返すけれど、どうしても超えられなかった。8月の暑い時期でした。
できなくなったことは永遠にできないわけじゃない。挑戦し続ければいつかはできる
──なぜ思いとどまれたのでしょうか。
興奮していて夜も眠れなかったので、何度も欄干を越えようとしているうちに疲れてきました。力がなくなってきたので、近くの公園のベンチに横になりました。涼しい風が吹いて、やがて眠りに落ちました。そして夢を見たんです。僕には養子にしてもいいというくらい、可愛がってくれた叔父がいました。既に亡くなっていたその叔父が夢に出てきたんです。「目が見えないことには意味がある。お前が一生懸命に生きること。それが見えていても何のために生きているかわからない人たちに夢や希望を与えられる」こんなメッセージを貰いました。
──いい叔父様ですね。
僕の目がやがて見えなくなると知り、事業をして裕福だった叔父が熊本市内にマンションを建てようとしました。目が見えなくなっても家賃収入で食べていけるようにと用意しようとするような人でした。そんな叔父が「生きることに意味がある」と伝えてくれても、当時の僕にはピンと来なかった。歯磨きすらひとりですることもできない、そんな人間が誰かに勇気と希望を与えることができるなんて思えませんでした。ただ、ひとつわかったことがあります。「死んではだめだ」と。
──叔父様の夢が自殺を止めてくれたんですね。
叔父の言葉で思いとどまって家に戻りました。そして毎日が始まるんですが、ある日、ふと、歯ブラシに歯磨き粉を乗せられるようになっていました。
できないことは一生できないわけじゃなく、何度も繰り返すうちにいつかできるようになる。それに気づいてから、いろんなことに挑戦ができるようになりました。
鍼灸師を目指し教員へ。インクルーシブ教育を知りアメリカに興味を持つ
──どんな挑戦を始められたんでしょうか。
まずは杖を持ってひとりで家から一歩出るのも大変でした。すり足で用心しながら歩いて、車の音が聞こえたらよけるように、ゆっくりと進むしかなく、そんな思いをしてやっと近所のお店に辿り着く。そして同じように家まで帰る。それでも「自分の人生変わった」と思いました。
そう思えてからは、マラソンをやってみたり、富士山の登頂に挑戦したりもしました。
──富士山に登頂されたんですか!
富士山に登頂したら、ガイドの人が説明をしてくれるんです。「下から朝日が登っていますよ」とか「地上はない景色です」とか。周りの人がびっくりするんですよね。「目が見えないのにこんなところまで登ってこられるの?」って。
20代前半の頃です。その時、僕はあの夢の叔父の言葉「希望と勇気を与える」という言葉の意味がわかりました。
それからもいろんなことに挑戦し、やがてセーリングに辿り着きます。
──盲学校の教員もされていましたよね。教員免許を取るのはご苦労もあったのでは?
25歳で鍼灸の教員免許を取りました。目白台にある筑波大学の附属の理療科教員養成施設です。苦労といっても鍼灸の先生は目が見えない人も多いんですよ。もちろん大変は大変でしたが。免許を取ってからたまたま空きがあったので東京で働くことになりました。親は免許を取ったんだから熊本で開業すればいいと言っていたんですが、僕は教員になりたかったので。そして熊本から東京に来て、今度はアメリカへ留学したいと考えるようになりました。
アマチュア無線を趣味で始めたのが高校生のときで、盲学校以外の世界を見たいからでした。あの頃はインターネットもなくて、ラジオくらいしかない時代です。熊本の学校で物理の先生が教えてくれました。アマチュア無線で海外から英語の情報が入ってくるのですが、英語が当時はわかりませんでした。そこで英会話を学び、英語力を試したいという気持ちがありました。また、教育についてもアメリカは統合教育が進んでいたと聞き、興味がありました。
日本だと目が見えないと盲学校に行くことになる。インクルーシブ教育が進んでいないんです。
そこで特殊教育はサンフランシスコ州立大学がアメリカの中でトップレベルだと聞いて、聴講生として留学することにしました。
(2DAYに続く)
インタビュー・ライター:久世薫
岩本光弘(いわもとみつひろ) プロフィール:
ブラインドセーラー・メンタルトレーナー、モチベーションスピーカー。熊本県盲学校専攻科理療科卒業後、渡米。San Francisco State Universityに留学した後に帰国し、筑波大学付属盲学校の教員となる。16歳で全盲となった経験から生きる価値を伝える活動をさまざまな形で精力的に行っている。自身も2013年にニュースキャスター辛坊治郎氏と太平洋ヨット横断に挑戦。その後トライアスロンやマラソンにも挑戦。
公式サイト:https://hiroiwamoto.com/