珈琲で人と社会を幸せにするスゴい人! ▶友成勇樹様 DAY1

コーヒー好きなら誰でも一度は利用したことがあるだろう、カフェ・ベローチェ、珈琲館、カフェ・ド・クリエなどのカフェチェーン。本日のスゴい人は全国に約570店舗を展開しているC-United株式会社の代表、友成勇樹氏。珈琲文化の創造と発展を通して人を幸せにすること。その経営理念の言葉通りに、煙草を吸う人も吸わない人も心地よく共存できるTHE SMOKIST COFFEEを展開し、新たに、障がいのある方々が個性を活かし働ける焙煎所の開設を試行錯誤の上、実現した。人への愛にあふれた友成社長の行動は、実は波乱万丈の人生にありました。

チームワークとスピード  

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平日はイカの皮むき、週末はサッカー

東京の下町、文京区千駄木の生まれです。両親と私の3人暮らしでした。父は当時、銀座8丁目で寿司屋とクラブ、虎ノ門で秋田料理屋「きりたんぽ」などの飲食事業を経営していました。ここだけの話、私は小学校の頃からクラブ通いをしていたと言えます。父と一緒にですが(笑)。時代はバブル絶頂期で大変な好景気の時代。銀座の寿司屋では、巨人の王さんや長嶋さん、渥美清さん、政治家の中曾根康弘さんにおしぼりをお出ししたりして、声をかけてもらったこともあります。母はその寿司屋で経営者として、また女将として働いていました。当時は原宿に自宅があったので、朝学校へ行く前に銀座に行って、冷凍のイカを桶で解凍してから皮むきをしていました。冬は水が冷たくてねー。放課後はランドセルを置いたらすぐまた店へ。新橋演舞場に出前を持っていくとお小遣いもらえたりしてね。店の中板(なかいた:2番手の板前)さんが厳しい人で相手が小学生とは思えないくらい指導されました(笑)。でもすごくかわいがってもくれて。独立して千葉の検見川に寿司のデリバリー専門のお店を出されて繁盛されたんですが、大酒飲みの方だったんでね、40歳くらいかな、早く亡くなられて。僕は中学生くらいだったと思うんですけどとても残念に思いました。

小学校4年生からサッカーを始めて週末はサッカー三昧。当時は読売サッカー少年団というのがあって(現 東京ベルディ)読売ランドまで通っていました。そんな生活でも成績はクラスで上位にいましたね。父親の事業が割とうまくいっていたのもあり、私立の立教小学校に通わせてもらっていました。学校の友達はみんないわゆるボンボン。お金持ちが多かったですね。

幼少期

食べるものがない、どん底生活

ところが私が小学校の5年生の時に父が人に騙されるような形で、事業が倒産したんです。両親も離婚することになって、生活は一変しました。食べるものさえ買えなくて、親戚の叔父さんの自宅に食べ物をもらいに行ったりした時もあります。その時期は本当につらかったですね。趣味で集めていたコインを売ったりもしました。東京オリンピックの記念コインなんかもあったんですよ。母は女手一つでしたが、頑張って働いてくれましてね、なんとか学校だけは続けさせたいと頑張ってくれたのですが、中学校2年生の時にそんな母を見ていられなくて自分から杉並区の公立中学校に転校すると話しました。高校は中央大学付属杉並高校へ通うことができました。高校時代はアルバイトで貯金して、大学の入学金などの学費を自分で支払いました。学費が安いので大学は夜間の第二部。夜は商学部で学びながら、昼間は学費を稼ぐためにひたすら働きました。18時から22時くらいまで大学で勉強します。中央大学は多摩動物公園にあるんですが、夜はマムシが出るので帰宅時は気を付けて歩く。冬は坂道が凍結するので、校門からロープが張られて、それを握って滑らないように坂道を上り下りするんです。今は信じられないくらいきれいに整備されていますけど、40年前はそんな風情でした。

大学2年生の時に、大借金!

大学2年生の時に自分の店をやりたいと思って借金をして新宿2丁目にレストランバーを開きました。バブルの真っただ中でね、まだ景気が良かった時です。若気の至りで、新宿二丁目がどういう街なのか全然知らなくて(笑)、紹介された物件はビジネスホテルの半地下。気に入りましてね。母も一緒にやってくれるという事でオープンしたんです。母親はきれいな女性だったので、その同世代なんかも来てくれるだろうというのもありました。店名はウイッシュボンデライト。テキサス風のハンバーグはランチタイムには長い行列ができるほど人気でした。大学の時間帯は母とバトンタッチ。友人たちが一緒にアルバイトとして入ってくれましてね。大学が終わってからまた夜中1時くらいまで営業する。ランチは行列だったんですけど、夜がうまくいかなくてね。結局僕が大学4年の2月で店を閉めた時には借金が2000万残りました。そんな状態で1986年、新卒として日本マクドナルドへ就職しました。僕が引き継いだオーナーさんは今でもそこでやってらっしゃるんですよ。もう70歳過ぎになられてるんじゃないかな。bura(ブラ)という、良いお店です。すごいですよね。

奥にウイッシュボンデライトの看板が見える

 

可処分所得7,000円の社会人生活

当時のマクドナルドは外食産業として「食を科学する」という姿勢があってね。飲食業経営を経験した僕からはとても斬新な発想でした。前年に発売したチキンナゲットが大当たりしてマクドナルドがちょうど大量採用を始めた時期で、278名の同期はみんなキラキラして見えました。創業者の藤田田(ふじた でん)さんがまだ50代でした。社内の活気はすごかったですね。当時の外食産業では給料は高い方でしたが、それでも手取りは約13万5千円。借金の返済額は月々12万8千円。7千円じゃ飲みにも行けません。当時は母と阿佐ヶ谷に暮らしていましたが、厳しかったですね

入社して配属されたのは阿佐ヶ谷店。25歳の時に店長に昇格し、30歳でスーパーバイザーになりました。会社から求められるQSCQuality/Service/Cleanliness)の結果が早く出せたのは大学時代に自分のお店を経営した経験があったというのもありますが、やはり背負っている借金の返済に迫られていたことが何より大きかった(笑)。どうしても返済が難しくて消費者金融から返済に充てたりしたこともあります。早く出世しないと。という焦りにも似た気持ちがずっとありました。店長の前のファーストアシスタントマネージャーになったのが入社から1年8カ月。そこで年収500万くらいかな。ここからなんとか自力で返済できるようになりました。3年で店長に昇格したのですが、店長になるとボーナスが100万位出たんですよ。その差は大きかったですね。それでも一生懸命働いて、最終的に全額返済できたのは37歳でした。

もっと学びたい!2度目の夜学へ。

34歳の時にイリノイ州のシカゴに日本マクドナルドの子会社「CFR Inc.」のバイスプレジデントとして海外赴任しました。米国マクドナルドのフランチャイジーとして2店舗運営していたんですが、日米で店舗運営にそう大差はなく、それほど難しいものではないとほどなくわかったんです。それで何かもっと勉強したいなと思って夜学でMBAを取得する事にして、現地の「Keller Graduate School of Management KGSM」に入学しました。昼間は仕事をして夜は勉強。大学の頃と同じような生活スタイルです。大学も大学院も夜間ですので、僕は結局のところ昼間の大学に通った経験がありません(笑)。ビジネススクールのアサインメント(宿題・レポート)は量も、求められる質も大変に厳しいものでした。4年半の駐在期間のうち3年2カ月は通学していて、平日は4時間、週末は15時間勉強していました。寝る時間が本当に無かったですね。人生で一番勉強しました。

当時の僕の中には飲食業の社員というのは、様々な取引先(商社や飲料メーカー)と比べるとどうしても見劣りするという思いがありました。飲食業・外食産業の従業員というのは、いわゆる「水商売」という認識をされているような気がしていました。実際にそういう言葉や体験を通して、悔しく、残念な思いをしたこともあります。そんな想いもあって、外食産業の社員としてこの与えられた機会を無駄にすることなく自分を磨きたいと思いました。学費は600万くらいかかりましたが、全額自分で払いました。その後米国本社のマクドナルドインターナショナルに転勤となりました。

マクドナルド勤務のころ

アジア人の講師として差別され、尊敬もされる

当時世界のマクドナルド事業の中で、日本は米国に次ぐ二番目の業績でしたが、本社の営業本部に日本人はまだいなかったので、日本本社からお役に立って来いという事でしたね。

ワールドワイド部に配属され、そこのハンバーガー大学という教育部門で教鞭をとりました。担当したのはミドルマネジメントクラス。ス―パーバイザー以上のレベルの人たちの教育です。ストアマネジメントではなく、ビジネスマネジメント。フランチャイズのオーナーとどのようなコミュニケーションを取ってより円滑なパートナーシップを展開し、結果を出していくか。というのを約2年、担当しました。クラスコンテンツの構築をしつつ、実際にクラスで教壇にも立ちました。大変だったのは、世界中のマクドナルドから中間管理職クラスの社員が研修に来ますから、私自身も質問にきちんと答えるために勉強する必要があったことと、日本人という事もあってやはり人種差別のような経験もしたことです。

1週間の研修の初日は毎回月曜日です。その前の土曜日にレセプション(歓迎)パーティをやります。マクドナルド本社の敷地は広大で、本社ビルとホテル、タワービル、ハンバーガー大学が隣接しているんです。敷地内で開催されるレセプションパーティで、来週から授業を担当するYUKIです。と紹介するとあからさまに「はぁ~」とため息が漏れる。米国本社で研修できると思って意気揚々と来て、講師が日本人の若造だったら、まあがっかりする気もわかります(笑)。あからさまな嫌悪感を隠すこともなく、無視されることも日常茶飯事でした。でもね、月曜の朝に授業が始まると態度は変わりました。こちらも気合と根性と義理人情の人間ですから、彼らと真正面から向き合いました。複雑な質問をもらった時はその場で答えるのではなく、一度持ち帰り、間違いが無いように調べてレポートにする。そうすると帰国後に彼らが現場で役立つ資料になりますからね。月曜・火曜・水曜と時間がたつにつれ、リスペクトしてもらえるようになります。そして最終日のパーティではディプロマ(終了証)を渡すのですが、その時までにはみんな「YUKI!」と呼んで名残を惜しんでくれるようになります。この受講生の1週間の態度の変化を楽しめるようになるのに半年くらいかかりました(笑)。最初はとにかく怖かったですね~。

米国マクドナルド本社のハンバーガーユニバーシティーでのプロフェッサー時代の写真

 

2日目へ続く

友成 勇樹氏 プロフィール

1963年75日、東京都文京区生まれ。中央大学卒。KELLER経営大学院MBA修了。

1986年に日本マクドナルドに入社し、34歳で米国マクドナルド本部に出向。

4年間の海外勤務を経て帰国後、新会社の代表取締役社長に就任。その後、2004年に独立し、モスフードサービスの取締役などを歴任。

現在、カフェ・ベローチェや珈琲館、カフェ・ド・クリエを中心に、約570店舗のカフェチェーンを手掛けるC-United株式会社で代表取締役社長を務める。

 

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