アプリ開発で世界をアップデートしているスゴイ人!▶菅澤英司様 DAY1

日本のTV視聴のルーティンを変革したアプリ【TVer】を知っているだろうか。本日ご紹介するのは、“最強のものづくり集団”株式会社bravesoftの代表取締役、菅澤英司様です。2005年に設立したbravesoft社はすでに中国やベトナムにも事業展開している。いかにしてbravesoftはアプリ開発の雄となったのか。社会にムーブメントを起こした菅澤社長のその生い立ちを伺いました。

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大人しかった幼少期

編集部(以下、編):本日はよろしくお願い致します!早速ですが、菅澤社長は東京生まれ、東京育ちと伺いました。

菅澤英司さん(以下、菅):はい、198110月、東京都大田区の池上で生まれました。

 

編:え⁉ここからとても近いですね!(取材場所:bravesoft本社の住所である田町) お寺がありますよね…!全国的に有名なごまのお店もありますよね。

菅:本門寺ですね。うーん、ごまのお店ですか。10年前ぐらいまでは住んでいたんですけど大学に入ってすぐに一人暮らしを始めてしまったもので…(笑)今度行ってみます!

 

編:一人暮らしされていたんですね。ご家族と離れて寂しくなかったでしょうか?

菅:どうだったかな。ちょうど3つずつ離れた姉と妹がいて、父と母も合わせて5人暮らしだったんですが、元気な姉の弟として、反対に妹には兄として頼られる存在でした。僕自身は大人しい性格で、姉からは黙っていじめられるくらいでした。だから姉弟での喧嘩とかもあまりなかったですね。姉は美容師になった後、今は起業家として色々やっていて、妹は小学校の教員になりました。父は司法書士として蒲田で事務所をやっていましたし、母は看護師です。僕はITの道に進んだので、それぞれ別の道で頑張っています。

 

編:家族全員がそれぞれの道で才能を発揮されていてすごいですね…! 

菅:そうですね~。まあ、なので共通の話題というのもなかなか難しいですが、ただ母と私は旅が好きという共通点があります。この年末年始も大連、北京、ベトナムなどに行ってきました。半分仕事で半分観光と言った感じで、子会社も見に行ったりなどしました。

 

編:大連に子会社がおありですものね。

菅:はい。現在は大連と北京、ベトナムのホーチミンにも子会社があります。現地のエンジニアを雇ってアプリ開発をしてもらっているので、その視察のために現地を訪れたりしますね。

 

編:旅行と仕事が同時にできるなんて一石二鳥ですね!少しうらやましいです…!どうしたらそんな風になれますか?やはり子供の頃からコンピューターなどにご関心がおありでしたか?

菅:幼少の頃は…かなり大人しい子でした。人気のあるお笑い芸人さんなどが子どもの頃は大人しかったので今は…みたいな話を聞くと、まさに僕と同じだなと思います。地元の池上小学校に通いましたが、友達も落ち着いた人が多かった気がします。昔はコンピューターというより算数が好きでしたね。ちょっと変わっていたのは、近所のニートのお兄さんの家に入り浸っていたことかな…。

編:ニートのお兄さん⁉

おとなしい子どもだった

 

大好きだったニートのお兄さん

菅:その頃「ニート」という言葉はないんですけどね(笑)。お兄さんは猫を8匹くらい飼っていて、当時は20代後半ぐらいだったかな。このお兄さんの家に友達と毎日入り浸ってゲーム、麻雀をひたすら教えてもらっていました。

 

編:なかなかない経験ですね(笑)

菅:でも当時を思い返すと“大人と会話する”ということを自然と学んでいましたね。自分の中で初めて社会と触れ合った瞬間だったのかもしれません。 親は心配していましたけど。    地元の大森中学校に進学したのですが、当時の大森中は結構荒れていて、不良が不通にいるような状況でしたが、僕はそういうのには交わらない性格でした。たまに喧嘩に巻き込まれるなんてこともありましたが、今になって思うと、この時の学校での「動」の体験とお兄さんの家で過ごす「静」の時間で得た経験はとてもバランスが良かったと思っています。

 

編:なるほど!その当時はどんな心境でいらしたんですか?

菅:当時の自分は「世の中って面白くないな~」とずっと考えていました。何のために生きていくかも分からないし、ただつまらない日常が続いていると感じていました。その頃ちょうどアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった頃で、主人公のシンジに共感する場面が多くて、ハマりましたね。それまでのアニメの主人公は「ヒーロー気質」のキャラクターが当たり前だったので、主人公なのに「逃げたい」と本音を吐き出すシンジに自分と重なるものを感じていました。

シンジに自身を重ねていた

 

今日から俺は!

編:高校は法政大学の付属の高校に進学されましたよね。

菅:僕、受験したことないんですよ。中学の頃、成績が上位だったので書類選考で通って。法政大学の付属である法政二高に入学しました。

 

編:そうとう成績が良かったんですね!すごい!

菅:そうですね、けどこの時点でも「つまんないなあ」と思っていました。進学したのも消極的な妥協という思いがありました。その反動からか、高2ぐらいからつまらなさが加速して、校則を破り始めました。学校のある川崎まで電車だと40分ぐらいで着きますが、家からバイクで学校通ったりと、授業をさぼってみたりし始めました。ちょっと不真面目に生きてみようかな~と。

 

編:え⁉今までの性格からは急に路線が変わりましたね。

菅:そんな事をしながら高校3年生に上がった際、こんな人生で果たしていいのだろうかと疑問が湧きました。成績も中の下ぐらいでしたし、部活もバドミントン部にレスリング部に幽霊部員として入部してみたり。レスリングは部員がいなさすぎて、友達とプロレスばかりやっていました。でも結局何をしても退屈に感じていました。

 

編:まさにシンジのような心境だったんですね。

菅:そう。でもちょうどそんな時に、windowsが発売されて、これからパソコンの時代になる!と騒がれ始めたのです。法政大学に情報科学部が新設されたのもこの年で、そこに行きたいと目標ができました。ただ法政大学に進める付属高校700人の中でも、情報科学部に進学できるのはたった10人ほどでした。

 

編:狭き門だったのですね。

菅:だから最後の一年間は必死に勉強しました。猛勉強の末、オール5を取ることができて、無事に情報科学部に入学することができました。この時に人生で初めて“頑張って何かを成し遂げる”という感覚を掴みました。

 

「目指せ甲子園」で1000万円!!

菅:念願かなった大学1年の頃は、遊びとアルバイトに励んでいました。Iモードが日本に誕生し、一世風靡していた時です。学生でも携帯で動くアプリが自分で作れる!とあって、夢中になりました。世間ではマルチメディアの時代がくる!と言われていて、情報科学部の学生にすぎない自分にもプログラミングのアルバイトの話が舞い込んできました。

 

編:それはアプリを作る企業からですか?

菅:システム会社の中小企業さんからでしたね。POSレジ(コンビニのレジなどで機能しているレジシステム)とかを作っていた会社ですね。

 

編:当時そんな会社があったのですか!? (編集部注:現役学生ライター達は、POSレジの誕生と歴史を学びました!)

菅:そうなんです。そこで最初に友達と作った野球のゲームが「目指せ甲子園」という名前でした。コントローラーを持って一緒に戦うのが常識だった対戦ゲームですが、遠く離れた人とオンライン上で戦えるシュミレーションゲームで、これが月に1000万円の売り上げを叩き出しました。学生が作ったゲームでも売り上げを出せるようなアプリ草創期ならではといえる出来事でしたね。当時もらったアルバイトの時給は500円でしたけど、お金なんて関係なくて、みんなただ夢中になって作っていました。

大学時代の仲間と

 

編:でもお金では得ることのできない満足感があったでしょうね。

菅:友達と一緒に仕事をする、それ自体が面白くてね。大学2年生の時の5人組でお互いに役割分担もしながら作りました。現在のアプリの容量は100メガぐらいですが、当時のiモードは10kしかなくて、その制限の中でプログラミングしないといけなかったので大変でした。色々工夫を凝らして、出来ることを探りながら、友人たちと作業に打ち込むこと自体が楽しかったですね。プログラミングができる人もまだ少なかったので、依頼は止まりませんでした。人生で初めて面白いと思えることを見つけられた瞬間でした。

( 2日目に続く)

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菅澤英司氏 プロフィール 

1981年10月生まれ。東京都出身。法政大学情報科学部卒業。

学生エンジニアとして活動し22歳で起業。15年間で世界4拠点150名でのグループに成長。総計1DL1000件以上のアプリ開発を経験。首相官邸やTVerなど代表作の開発を主導。「最強のものづくり集団」を目指し、エンジニアリングの理想を追求。趣味はプログラミング、1人旅、ブログ、読書。

コーポレートサイト:https://www.bravesoft.co.jp/

 

 

 

 

 

 

 

 

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