強さを追い求めてプロボクサーと弁護士になったスゴい人▶坪井僚哉様 DAY2

昨日に引き続きご紹介するのは元プロボクサーにして弁護士でもある坪井僚哉(つぼい りょうすけ)様。15歳でプロボクサーと弁護士の両方になると決め、プロボクサーとして新人王トーナメントの優勝候補となるも、医療ミスにより選手生命を絶たれ、弁護士の道へ。自らの情熱の赴くまま、ストイックに夢を現実にしていくそのエネルギーの源は何なのか。今回もスゴい人の凄い話を伺いました。

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夢を叶えてプロボクサーに。しかし医療ミスによってその夢は絶たれる

せっかく入学した法政大学法学部国際政治学科でしたが、法学部のくせに法律を殆ど学べないということがわかったので2年で中退しました。親には黙って休学して、翌年明治大学法学部に入り直しました。まずはボクシングに集中しようということで大学時代は所属ジムの近くに下宿し、本気でチャンピオンを目指す生活を始めました。朝起きて10キロくらい走って、学校の帰りにジムで練習し、時にはジムでの練習後に走ったりプールに行ったりするのを週6で繰り返すボクシング漬けの日々でした。おかげで大学2年の時にプロボクサーとなり、後楽園ホールで行われたデビュー戦では3ラウンドTKO勝ちしました。死んでもいいから勝つと遺書を書き、憧れの後楽園ホールで100数十人の友達が応援に駆けつけてくれた中での勝利でした。生まれて初めて嬉し泣きをしました。

ありがたいことに後援会ができるほどに期待していただき、その年の新人王トーナメントでは優勝候補に挙げていただいていました。そこで優勝すれば日本チャンピオンへの挑戦権が手に入る、新人としては非常に大きなイベントが新人王トーナメントです。

ところがちょうどその頃、治療のために打った注射により左手の神経が麻痺して拳が握れなくなりました。医療ミスです。22歳の時でした。左手が痺れて動かないことは隠したまま、練習や試合はほぼ右手だけで戦っていました。右手一本だけで試合に勝ったりもしたので、当時の対戦相手には気が付かれていないと思います。しかし腕二本しか使えないボクシングで、しかも生命線である左手を使えないハンデは埋め難く、新人王トーナメントの途中で1ポイント差の判定で負けて、最後にもう一試合だけやって引退することにしました。引退試合までの数カ月は人生で一番努力しました。最後だから死ぬ気でやろうと全力でトレーニングを積んで臨んだ試合の結果は、またもや1ポイント差の判定負けでした。ここがボクサーとしての限界だと悟って、引退をしました。

プロ第2戦勝利記念写真。左手は殆ど使えていなかった

 

もう一つの夢に向かい、舵を切った

ボクシングを引退後に気持ちを切り替えてもう一つの夢である弁護士を目指し始めました。それまでは勉強そっちのけでボクシングに打ち込んでいたので法律の勉強は一からでした。弁護士志望の学生は普通大学1年生から勉強を始めますが、僕はボクシングを辞めた大学3年の秋から始めたので既に2年半遅れでした。遅れを取り戻そうと1日も休まず必死に勉強しました。ファイトマネーを切り崩しながら1日130円で食い繋ぐ貧乏生活でした。

親に私立の大学院へ行く金銭的負担をかけたくなかったのと、友達や知り合いがいない町で勉強に集中したいと思って、関西の国立である神戸大学法科大学院に進みました。司法試験累計合格率日本5位の神大にギリギリ滑り込んだこともあって成績は下位25%からのスタートでした。しかし、プロボクシングという勉強よりもつらい経験をしていましたし、落ちこぼれから逆転した高校での経験もあったので、決してへこたれませんでした。

そんなボクサー時代の自分に勝ちたくて、勉強しないことを諦めることに決めました。勉強は最大一日20時間半、どんな理由があっても1日たりとて勉強を休まない、司法試験直前期には純粋な勉強時間で一日16時間やるまで帰宅しない、勉強時間でなく勉強していない時間を計る、家にいていいのは最大9時間まで、一冊の問題集を20周近くやるといった感じです。勉強開始から司法試験を受験するまでの3年間で1.2あった視力は4分の1になり、腰痛は酷くなり、ストレスで胃潰瘍になりました。でも諦めることは一切ありませんでした。司法試験に向けて我武者羅に勉強できたのは勉強よりも辛い世界で本気で戦った経験があったからです。格闘技をやると頭を打たれて馬鹿になると言う人もいますが、司法試験に受かったのはボクシングのおかげです。

法科大学院卒業時

 

夢を挫折し、夢を実現したその後に

法科大学院を卒業し26歳で受けた1回目の司法試験に合格しましたが、そこでいわゆる「燃え尽き症候群」になりました。10代半ばから20代半ばまで、丸12年間、「練習しなければいけない」とか、「勉強しなければいけない」といった強迫観念に突き動かされて生きてきたので、それを失って抜け殻のようになってしまって。人格の大半が夢を追いかけることで形成されていたので、夢を達成してしまったことによって今後何を目標に生きていけばいいのか途方に暮れてしまったのです。司法試験に合格した瞬間は死ぬほど嬉しくて、次に安堵感と周囲への感謝が来て、後はずっと虚しいというか、喪失感でした。もちろん弁護士として活動していけばいいということをわかってはいたのですが、こんな気持ちでは無理だと思って、バックパッカーとして広い世界を見て様々な価値観に触れることに決めました。医療ミスをした医者を法科大学院在学中に本人訴訟で訴えて得た和解金と親族からの借金を元手に、北米・中南米・ヨーロッパ・中東・アフリカ・アジアと30か国以上を巡りました。

トルコにて。即興で漢字のパフォーマンス 

戦争が起きる前のウクライナにて

世界中でも特に印象深かったのはウクライナです。

外国人が唯一合法的にチェルノービリ原発の立ち入り禁止区域に入れるツアーに参加したのですが、一歩草むらに入ると放射能を検知したガイガーカウンターのけたたましい警告アラーム音が鳴る荒廃しきった街の中で人間以外のすべての命が元気で、それでも「故郷だから」とそこに暮らし続ける人達がいました。原発博物館には福島原発事故のことも大きく取り上げられていて、色々なことを考えさせられました。

100体以上のミイラが眠るペチェールシク大修道院では、真っ暗で迷路のような地下洞窟でウクライナ正教会の信者に混じり、ミイラにキスをしながら祈りを捧げました。厳かで刺激的な体験でした。海外を旅していると頭をガツンと殴られるような衝撃的な体験をすることがあります。ウクライナではそれを沢山させてもらいました。戦争が終わったら必ずまた行きます。

チェルノブイリ。元小学校には大量のガスマスクと人形が混在

好奇心と運で世界の様々な国を訪れる

アメリカには金メダリストでモハメド・アリとも戦った元世界ヘビー級チャンピオン、ジョージ・フォアマンに会いに行き人生相談に乗ってもらいました。ブルガリアのロマ族のスラムではゴミ溜めの中で子どもたちと一緒に遊びました。トルコでは途中で金が無くなったため路上で道行く人の名前を漢字で書いてプレゼントするという路上パフォーマンスをやり、たくさんの喝采とチップを得るも、怪しい外国人がいるということで警察に逮捕されました。インドではガンジス川をバタフライで泳いだり、死を待つ人々の家でボランティアしたり、銃をちらつかせる偽警官に強盗されるも「俺のパンチはお前が銃を抜くより速いぜ」、「インドとジャパンはフレンドだろ」みたいな適当なことを言って口八丁手八丁で切り抜けたりしました。ラオスでは象使いの国際免許を取得しました。

 

大切な人をどう護るか

世界中を回る中で、これから先の人生の目標が定まりました。「自分が護りたいと思った人を護れるくらい強くなる」

世界一周までして見つけた目標は、プレハブ小屋で裸電球を見上げていた頃に抱いたものから何も変わりませんでした(笑)。でも一生をかけないと達成できないような途方の無いものです。

 祖父母や両親が莫大な負債を抱えて家族の生活が大きく変化したあの頃。豊かではありませんでしたが、本当に貴重な経験をさせてもらいました。今の僕があるのはあの経験のおかげです。自分たちは我慢してでも子どもたちにお腹いっぱいに食べさせてくれた両親には感謝してもしきれません。

 僕が今顧問弁護士という立場から中小企業を支えることを中心分野の1つにしている理由はあの原体験が礎になっています。中小企業が傾くと従業員やその家族の人生までが大きく変わってしまうという現実を痛いほど知っている一人の人間として、人が一生懸命に営む事業が理不尽に失われるような悲劇を無くしたい、僕の祖父や両親のような大変な思いをする人が二度と出ないようにしたい、そんな思いで弁護士をしています。一生懸命に頑張る人を力強く護っていく。そんな弁護士になります。

 そのためには、まだまだ強くならなきゃいけませんね。

 

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