多国籍の人が活躍する新宿エリアを、ボーダーレスな社会へ導くスゴい人!▶森田 應学様DAY1

今日ご紹介するのは株式会社アイロリ・コミュニケーションズ代表の森田様。常に自由な発想でアートと広告のはざまを走り抜けた過去や大久保という多国籍な町で、国内初となる地域と税務署をつなぐ運動会を開催、そして2021年に改訂された新誕生石の企画に携わるなど、真のボーダーレスの実現に取り組む、ボーダーにとらわれない生き方を実現しているそのスタイルを伺いました。

 

ボーダーレス

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イベントメーカー?だった小学校時代

 新宿、大久保エリアで生まれました。幼少期は超虚弱体質で外出も少なく家で絵を描いて過ごすことが多い子どもでした。家庭の教育方針は「無いものは作る」。絵描きだった祖父は僕を絵描きにしたいと思っていたので、塗り絵をしたければ下絵を自分で描き、玩具が欲しければ紙粘土で作る。絵描きが目を悪くしてはいけないと、テレビと活字は基本禁止でした。小学校に入ると今までの自由きままな生活が急に一変して集団生活やルールに馴染めず、授業を抜けては校庭の砂場へ向かう日々でした。ところが2年生の時に「カブトムシを取りにいこう」と、クラスの皆を引き連れて小さな旅に出たそうです。担任の先生がクラスに戻るともぬけの殻だったから大騒ぎになり、水道橋辺りで発見されました。だから保護者の評判もすこぶる悪くて。こんな風に、クラスの中でイベントメーカーのようなイメージが出来上がってしまい、「なぜこんな期待に応えなくてはいけないのか?」と悩みました。自宅で静かに絵を描いている、そんな一面も自分らしいという思いがありましたから。

珍しいもの好きで先見の明があった祖父

 今住んでいる大久保のビルは、戦後は珈琲工場でした。絵描きだった祖父の性格柄でしょうか、珍しいもの好きが転じて、まだどこも輸入していなかった珈琲の工場を設立したんです。また、「珈琲茶館蕃」から始まり、後に「蕃」という名の喫茶店チェーンも作りましたが、インスタントコーヒーが一般家庭に普及すると思い切りよく珈琲事業は畳み、宝石商に転身しました。高度成長期には宝石はあればあるだけ売れるという時代があって、その収益で駅前の土地をビルに建て替えたそうです。

自分をプロモーションしようとアートイベンターになる

 絵は日常的に描いていましたが、美術研究所に通うことが許されたのが中3の頃でした。そこでは年上の美大受験生に混じって絵を学び、デッサンに没頭する毎日が始まりました。結局二浪して多摩美術大学へ入学しました。美大に進んでからは受験時代のような単純な相対評価は無くなり、何を創るべきかという自分の中での絶対評価を重視する思考に変わりました。多摩美には、自由な発想で勝負する風土があったように思います。そんな雰囲気の中で行きついたのがアートイベントでした。アートイベントを自ら主催して「良い場所」に自分の作品を発表するわけです。無いなら作るのが作り手ですから。美術館に新規層を動員するプロモーションと称して企画を立案し、美術館や企業の協力を取り付けて開催させていただいたりしました。

砂浜に築いたオブジェ

 

 

米国仕込みの3DCGの講師となる

 

当時はジュラシックパークが公開され、3DCG技術が注目され始めた時でした。子どもの頃から粘土が好きだった僕としては、立体が動くというのは新しくて面白いと、さっそく着手しました。まだ3DCGをやっている人は少なかったので、ちょっと作品を作るだけでかなり稼げる学生アルバイトでした。大学卒業時、ワークステーションという高性能機材を扱っている商社の方にお声がけいただき、本場アメリカのハリウッドの映画製作会社で3か月の実地研修をさせていただきました。帰国すると、ちょうど日本ではデジタルハリウッドが人気を博しているタイミングで、代々木アニメーション学院が新設学科の主任講師を募集しており、立地的にも好都合だったので応募しました。講師時代に注力したのは、生徒にコンセプトワークとプレゼンテーションの意識を根付かせることです。この新設学科には光学式モーションキャプチャーなどのフルスペックの機材が揃っていましたが、機械が使えて技術があっても、それを作る目的とプレゼンテーションできる能力が無ければ社会にはつながらない。専門学校の方針は「道具を教えること」だと言われましたが、それでは何も意味がない。だから生徒には「なぜ作るのか」を徹底的に深堀りさせました。「ガンダム作ります」なら、「なぜガンダム作ろうと思ったのか」ここが大切なんだよと。最初はクラス内でやっていたプレゼンテーションも、隣のクラスへ出向き、その次は学部全体で、そして学校全体で、さらに他所の専門学校へ、と、フィールドをどんどん拡大させていきました。学生たちにイベント企画を指導して実行したりもしました。教室に電話線を引き、事務局を設立し、学生たちはどうやったらクライアントからスポンサー契約が取れるか思考するわけです。スーツ着てね。卒業後に社会で活躍できますよね、否が応でも。2年間の講師生活の間に、就職内定率ゼロから、1人が2,3社の内定を取るまでに成長しました。

 

企業や部署をまたいで広告制作

 

講師を辞めてからは、大学時代に専攻していたアートイベントの講師と「村おこし」をすることになりました。滝に映画を投影したり、村全体をミュージアムにするような、環境を活かしつつ技術とアートとの融合を目指していく作品で、建設省や環境省が支援していた事業でした。その後、26歳の時に四国の印刷会社と出会い、そこの東京支社企画室を立ち上げる形で就職しました。半年後には印刷屋とは一線を画した「デコプラス(デザイン&コミュニケーション+α)」という系列会社を作り、某有名飲食店チェーンの仕事をすることになりました。チラシ制作、期間メニュー、グランドメニューと徐々に受注していき、数ヶ月間におよぶ撮影期間を過ごすうち、お客さんとのアイデアが次々に広がり、新ブランドの企画、従業員マニュアル、制服、社員旅行、お皿の作画、果てはトイレットペーパーのデザインまで、やっていないものはないんじゃない?と言われるほどでした。仕事がどんどん拡大していく中でCMを作る話が持ち上がり、広告代理店の中に制作の為の席をもらったのですが、行ってみたら社員でもなく、派遣でもなくて。局長の命で営業局のルームに部屋を作ってもらって、僕はそこに「存在」する人になりました。営業局のスタッフの方にしたら「よくわからない人」がいるって感じです。だけど営業が制作に渡す前のブレスト段階、予算もまだつかない案件の相談を受けるという役割でした。そのきっかけになった飲食店チェーンのCMも出来上がり、バラエティー番組からの女性客役起用も話題になりました。

(2日目へ続く)

インタビュー:アレス

 

◆プロフィール
森田應学(もりた おうがく)
東京都新宿区出身
多摩美術大学グラフィック卒
(株)アイロリ・コミュニケーションズ代表
新宿間税会常任理事 青年部長
https://shinjuku-kanzeikai.jp/
東京国税局間税会連合会理事 青年副部長

 

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