本日ご紹介するのは、日本一の流域面積を誇る利根川が流れる茨城県を本拠とする株式会社坂東太郎の会長、青谷洋治様。農家の長男でありながら24歳で飲食店第1号店を開店し、一代で和食からステーキ、とんかつ、高級食パン店まで直営81店鋪、そして企業主導型保育事業まで手掛ける実業家となったその足跡と経営理念、哲学をお聞きしました。
親孝行 人間大好
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▶今日のポイント
*病弱な両親を助けたい一心で、小学生で一家の大黒柱となる
*15歳で母を亡くし、夢半ばで実家を継ぎ、農業の日々
*20歳、妹に支えられながら、夢の続きを歩き始める
小学生で一家の大黒柱となった
編集者(以下、編):本日はお忙しいところありがとうございます。
本日は青谷会長のこれまでの足跡をお伺いできたらと思います。
青谷会長(以下、青):ありがとうございます。それはちょっと覚悟を決めて話さないといけないですね。(笑)
私は茨城県八千代町の農家の長男として生まれました。今でもそうですがこの辺りは広大な農地が広がる地域で、町は農業がとても盛んです。
父は日中戦争と第二次世界大戦の2度の徴収で出兵しましてね。それが原因でしょうか、慢性的な心臓の病気を患いまして、重いものを運べなくなっていました。農家は力仕事ですから家業には大変な痛手です。
母はあの時代で女学校まで出る裕福な家庭で育ちましたが、元来身体が弱く、病院通いも多かった。そんな両親を助けたいと思って、物心着く頃には朝は畑仕事を手伝ってから登校、放課後も畑で作業をする生活でした。学校に行く前には、昼間両親が畑作業をしやすいようにと作業の事前準備をしてから登校。下校後はその片付けをするのが日課でしたね。2つ上の姉がいまして、二人一緒に助け合いながらやっていました。妹と弟はまだ小さかったですから。
編:小学生の頃から家族を支える存在だったのですね。
青:兄弟達からは農作業を私が中心でするからでしょうか、「親父」と呼ばれていました(笑)。家計を助けるためにリヤカーで行商に出ることもありました。夏は30個ぐらいの西瓜をリヤカーに乗せて花火大会に売りに行きました。小さな体で、西瓜の乗った大きくて重いリヤカーを引いてね。
当時の貴重なお写真
家族で育てた西瓜を一つ売ってお金をいただく。稼ぐことの大変さを身体で学びました。とにかく家族を助けなければ。そんな一心でいたので、小学校の卒業文集には「将来は社長になる」と書きました。友人には「農家の長男が社長になんかなれるわけがない」と笑われましてね。とても悔しかったことを覚えています。当時はまだまだ農家の長男は農家を継ぐのが当たり前という時代でしたから。農家をしていれば食べることに困ることはなく、農家は安心だという風潮もありました。
編:戦後の日本の地方はまだそういう雰囲気だったのですね。
青:そうですね。その後私が15歳の時に母を亡くしました。母が亡くなると、家業はもちろんのこと、妹や弟がいますから家庭のこともやらなければならない。高校進学どころではなくなり、やっぱり実家の農業を継ぐことになりました。長男の宿命と言いましょうか。「社長になる」という夢もこれで諦めるのだなとその時に思いました。15歳という年齢でしたから、友達はみんな自分の夢を持って進学したり、新たな世界に挑戦したりしていてね。なんだか自分だけが取り残されていくような、自分は世の中の本流から離れてしまったとすごく寂しい思いをしました。
編:それはさぞかし辛いと思われたでしょうね?
青:ところがこれが意外なことに、「辛いとか大変」と思ったことはなかったですね。農家の長男として当たり前だと思っていました。そんな中、私が助けられたのは友人達でした。どういうわけか、毎日、私の家にいつもたくさんの友達が集まってくるんですよ。いつも5、6人は必ずいる。メロンやスイカの霜よけをする、っていうと10人ぐらいの人が集まって手伝ってくれました。当時は16歳で免許が取れましたので、それぞれが軽自動車でうちに集まってきます。近所の人にはまるで「中古車センター」だねって言われたりね(笑)。
当時我が家の前の道路は舗装されていない砂利道だったのですが、毎日毎日車の往来があるので砂利が無くなるんです。車にくっついちゃうから。それぐらい人が集まってました。どこへ行くのも大人数で行きますから愚連隊なんて言われてました(笑)。でも何やってるんだと言われたら一生懸命農業しているんですけれどね(笑)。
こうして15歳から20歳まで農業一筋。無我夢中で農業に勤しみました。そうすると20歳の時に、坂東市のお蕎麦屋さんがアルバイトを探しているらしいよと教えてもらいました。これだ!とピンときました。
妹がつないでくれた夢の続き
編:農業以外の職業、社長になるという夢を思い出したのでしょうか。
青:そう、ピンときたんです。やはり諦めきれていなかったんですね。どうしてもやりたい、これはやらなければいけない!と強く思いました。そこで朝暗いうちから日暮れまで畑作業をし、日が落ちたら今度は八千代町から坂東市へ移動して、そば職人としての修行をする生活を始めました。通常一人前のそば職人になるには5年かかると聞いたので、俺は3年でやるんだと決めました。若いとはいえ、まさに寝る間もなく一生懸命に働くこと6カ月。やはり身体を壊してしまいました。
当時妹は教師になるために学校の寮へ入っていたのですが。ある日突然荷物をまとめて帰ってきたんです。学校を辞めてきたと。びっくりしましたね。「このままだとお兄さんも家族も壊れてしまう。私が農家をするから、お兄さんは昼も夜も蕎麦屋で働いて早く一人前として独立してほしい」と。
編:妹さんはお兄さんに相談しないで学校を辞めて、戻ってこられた?
青:そうです。妹は母に似てとても成績が良くてね。学校の先生からも期待されていたんですよ。それなのに、妹は覚悟を決めて学校を辞めて戻ってきた。家族のためにと思って頑張っていたのに、妹の夢を犠牲にしてしまったという思いが一番辛かったですね。夜中に何度も男泣きしました。このままでは妹に申し訳ないと、絶対に結果を出すのだと自分も覚悟を決めました、
編:妹さんの支えがあって、独立の夢を果たすことができたんですね。
金も後ろ盾もない。あるのは強い信念だけだった。
青:修行でお世話になった社長と奥様に恵まれたんですよ。なんとか24歳で独立するわけですが、これがまた大変だった。23歳で自分の店舗を計画し始めたのですが。やはり資金面で非常に苦労しました。実家の土地を売って資金を工面したりもしましたが、全然足りなくて。大工さんには「お金がないならこんなのやらないほうがいい」とも言われました。悔しいけれど、絶対に後には引けない。実際には700万くらい資金が足りなかったんです。当時の700万ですから大金です。なんの後ろ盾もないただの23歳ですから、銀行に借りに行ってももちろん貸してくれません。でもね、他に方法がありませんから、とにかく毎日銀行にお願いに行ったんです。私が行くとね、私の後ろを見るんですよ、銀行の人が。誰か保証人でも連れてきたかなと。もちろん誰もいません(笑)。
編:銀行としても誰か連れてきてくれた方が貸しやすい(笑)
青:そうだろうね。当時は23歳の若輩者ですから。でも、誰もいないから(笑)。4回目くらいになると銀行に入った瞬間、行員の方が「また来た‥」という顔をしてましたね。こっちもどうしてもお金借りなきゃならないから諦めません。すると7回目で支店長が出てきてくれました。「事業計画書はあるの?」と聞かれましてね。当然、無いです(笑)。ここから事業計画書の作り方や、事業の本質を教えていただきましてね。11回目でようやく銀行借入ができました。これは私が苦労した話なのではなくて、絶対諦めない心の大切さを学んだという話なんです。この諦めない心が、人の心を動かし、自分の環境を動かしていくのです。
編:まさに「思う一念、岩をも通す」。
青:母の死をきっかけに夢半ばで農家を継ぎました。妹のおかげで一度は諦めた夢を達成するチャンスをいただき、不可能が可能になった。母は私を強くするために早く亡くなったのかなとさえ今は思います。母が生きていたら、今の自分はなかったと思います。
編:そして晴れて自分のお店を持たれました。
青:そうですね。ちょうどその頃、お店のオープンと同時に結婚もしました。お店をオープンした当初はまだまだ大変でした。
編:本当に奥様と一から2人3脚で歩んでこられたんですね。一つの蕎麦屋から始めた事業が今のような大きな坂東太郎グループになるまで、大変なこともあったと思います。
青:大変なことね、ありましたね、沢山。ただつまるところ、私は人間が大好きなんですよ。どんな人とも分け隔てなくお付き合いするからでしょうか、若い頃からそうだったように、なぜか人が来てくれる。1号店を始めると、友人知人が食べに来てくれたり、働きにも来てくれるようになり、お店がどんどん大きくなっていきました。
1号店オープンから11年目、1986年に株式会社 坂東太郎を設立しました。坂東太郎は利根川の愛称です。利根川のように日本一になりたいと坂東太郎の名前を命名し、後に私を育ててくれた市も統合し坂東市になりました。
(DAY2へ続く)
ライター:NOZOMI 構成:NORIKO
DAY2では、事業拡大の過程で、かならず越えなければならないハードルが出てくる。どんな困難も人とのつながりと信頼で乗り越えてきた青谷会長の経営哲学をお聞きします!
◆青谷洋治氏 プロフィール
茨城県八千代町出身。
農家の長男として生まれ、幼い頃から農業に従事、15歳の時母の死をきっかけに一家の大黒柱となる。20歳、蕎麦屋のアルバイトを始めてから24歳で独立、その後1986年法人化し(株)坂東太郎設立、以後、坂東太郎グループを率いて現在茨城県内を中心に直営80店舗以上経営。社会に幸せを生み出す、しあわせ創業企業を目指す。
しあわせ創造企業坂東太郎グループ ホームページ http://bandotaro.co.jp/
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