本日ご紹介するのは、新宿の地で100年以上も「油(あぶら)商」を営む大家商店3代目大家章嘉(おおや あきよし)社長。戦前から日本の近代史とともに変遷してきた家業を引き継ぐその心得を伺いました。
◆見どころ
―107年前に祖父が起業
―姉3人に囲まれて育つ
―大学時代は劇団員だった
事業の起こりは祖父の丁稚奉公から
当社大家商店は大正3年の創業以来、歴史と共に油を扱ってきた油商です。創業当初は油問屋などとも言われたようです。当時は菜種油やごま油などの植物油、また整髪用のポマードなどを販売しておりました。
祖父の大家文藏は滋賀県出身で今の甲賀市の生まれです。大家という名字もこの辺りに多い苗字なんですが、兄弟が多かったので15歳くらいで東京の知り合いの油商を頼って上京したそうです。神田の美土代町に東英石油という会社があって、親戚ではないのですが同じく滋賀県出身の大家さんが経営していたそこに丁稚奉公に出たんです。農家だった曽祖父が田畑を売って当座資金を工面したと聞いています。10年ほどの奉公ののちのれん分けという形で独立し、大正3年に牛込の柳町ではじめたのが当社の興りです。今もある岩井の胡麻油株式会社さんと特約店契約などを結び、順調に業績を伸ばしていきました。
創業当時。看板にポマードや香油の文字が見える。
植物油から鉱物油へと商品が大変革
事業態様に大きな変化があったのは昭和7年。ライジングサン(現「昭和シェル石油株式会社」)と提携して石油販売業を開始した時です。ちょうど家庭の暖房器具が練炭から灯油ストーブへ変わったころで、店先で灯油などを家庭向けに販売するようになりました。時代の流れに合わせて弊社の取り扱い商品が、それまでの植物油から石油へと大きく変化しました。
それから第二次世界大戦を経て、日本石油から独立した出光興産株式会社と昭和26年に販売店契約を締結しました。ここから本格的に石油、主にガソリンを取り扱うようになりました。同時に新宿の高田馬場へ本社を移転、ガソリンスタンド経営を始めました。時代は高度経済成長期で、社会の移動手段として自動車がメインになってきたころです。当時のガソリンスタンドは今とはずいぶん違っていて、今ならちょっとありえないんですがたばこ屋が隣接していたりもしたんです。
店の左側にガス灯のような細長い給油器があってね、この横に駐車スペースがあって、そこからホースで給油するんです。ガソリンの入った地下タンクも直接地面に穴を掘ってタンクを埋めていました。今は地中にコンクリートの密閉壁を構築して、そこにガソリンタンクを埋め、ガソリンが漏れ出さないように何重にも工夫がされています。当時はまだそこまで厳重な作りではなかったですね。今のガソリンスタンドは建築法と消防法の厳しい基準を満たしていますから災害時の緊急避難場所に指定されるほど安全な構造物です。例えばガソリンタンクの中に火のついた煙草をおとしてもガソリンに火は点かないんですよ。ガソリンが引火するには空気が必要なのでね。そういうところまで計算して今のガソリンスタンドは建築されています。
今の本社ビルも実はもともとガソリンスタンドだった時があるんですよ。 風景は今とほぼ変わらないですよね。下落合と合わせて3か所、牛込・戸塚・落合でスタンド経営しておりました。
当時の会社周辺の風景
長男でも好きな事をしていいんだと母は言った。
私は昭和29年に大家商店の長男として新宿若松町に生まれました。
姉は3人いて、一番上とは11歳違いで、後は9歳と4歳上です。年齢が一番近いせいもあり、4歳上の姉が一番面倒を見てくれたし、影響を受けた人ですね。ある意味母よりも躾(しつけ)にうるさかったし、「男はこうあるべき」という理念のようなものがあり、それに対しては厳しかったですね(笑)。
母はもともと埼玉県熊谷市の老舗の和菓子屋「紅葉屋本店」の娘です。「五家宝」というお菓子が有名でね。病弱な人で、幼い頃の記憶ではよくソファで横になっていた母の姿を覚えています。
当時は「長男は家業を継ぐのが当たり前」という風潮がありましたが、母は私には若いうちは好きなことをしていいと思っていたようです。大学卒業前に就職を考えているときにも、「油屋」はいつでもできるのだから、出来うる限り自分の好きなことをやった方がいいと言ってくれました。母の実家も家業を営んでいたせいで、商売の厳しさや苦労をさせたくないと思っていたのかもしれません。母は40歳過ぎからがんを患って、それから40年くらいは闘病生活でした。今ほどがん治療が確立していませんし、がん保険などもなかったですから、その治療費を自分の給料で賄い、看病し続けた親父は大変だったと思います。
がんの再発を繰り返した為に、良かったかどうかはわかりませんが、そのおかげで母は40年以上もがんと共に生き、最後は眠るように、あの世に旅立ちました。
父親に守られつつ!?男子校で育つ
姉3人が通っていたということで日本女子大学付属の豊明幼稚園に入りました。幼稚園だけは男子も入れたんですよ。当時は石油販売業が大変うまくいっていた時代でしたから金銭的にも余裕があったんだと思います。父親が幼稚園にジャングルジムを寄付したりしていました。私が入れたのはたぶんコネだと思います(笑)。姉たちはそのまま進学しましたが、私は男子校の立教小学校に進みました。そこからずっと男子校でしたから女性という存在が無くなりましたね。男子校ですから同性同士のいじめや、普通に暴力もありましたよ。先生は厳しかったし、悪い事したら躊躇なくひっぱたかれたりしましたね。私はお陰様でいじめられる事はありませんでしたし、先生に殴られるということはそれほど無かったけれど、父親が小学校にもブランコを寄贈したり、プール設立の寄付金集めで協力していましたから、やはりここでも守られていたんじゃないでしょうか(笑)。
時代を読む3代目として自然体で臨む
劇団員だった大学時代
大学は立教大学には進まず、早稲田大学の社会科学部へ進みました。大学時代は早稲田大学内の劇団木霊(げきだんこだま)に所属していました。劇団木霊と演劇研究会というのは早稲田大学公認の活動予算がおりる正式な部活動です。学内の大隈講堂の裏側に掘っ立て小屋みたいなのがあるんですが、ここのアトリエが活動場所。講堂に入るとまず木霊があって、直進して右に曲がると演劇研究会があります。木霊からは佐藤B作さんや長塚京三さん、
変わり種としては久米宏さん、田中真紀子さん、演劇研究会からは森繫久彌さんや堺雅人さん等有名な俳優さんが出ているんですよ。私は途中から役者よりも照明や監督などの舞台を作る裏方の方が好きになって担当していましたね。
就職活動は昭和54年かな、当時は製鉄会社、商社が学生には人気でした。早稲田大学だといっても就職は全然簡単ではなかったです。鉄鋼系も商社もダメでしたが、出光興産株式会社には内定をいただけきました。これもおそらく父親が手を回したと思いますね(笑)。出光興産の上層部の方が母親の親戚でしたし、今思えば面接の時も私個人のことより、「お父さん元気?」と聞かれて、「は?? 元気です。」と答えたのを覚えています。当時はわからなかったけれど、今は確信しています(笑)
◆大家章嘉(おおや あきよし)プロフィール
1954年 東京都新宿区生
1980年 早稲田大学社会科学部卒業
2001年 株式会社大家商店3代目代表取締役社長就任(至 現在)
公式サイト:https://www.oh-ya.co.jp/