本日ご紹介するのは、授乳服ブランドMO-HOUSEの代表、光畑由佳様。乳児の命を育む母乳育児のストレスを減らすために考案したのが、授乳室になる洋服、「授乳服」。授乳という行為が社会にとって当たり前の光景になることを願う光畑氏のスゴイ軌跡を伺いました。
「子育ては“我がまま”でいい」
<見どころ>
ー言葉をあまり発しなかった幼少期
ー実は、いややっぱりオタクだったかも
ー表現することの楽しさを知って
働く女性に囲まれて育った子供時代
岡山県倉敷市出身です。倉敷という町は古い町で、私は戦前からの古い建物が多く残る街で生まれ育ちました。倉敷はクラレの企業城下町です。第二次世界大戦の時に創始者の作った日本初の私立美術館である大原美術館があったため、倉敷市が空襲を免れた話は有名です。
私の実家は大正時代から続く老舗の陶器屋でした。(「食器のみつはた」)社長の祖父、専務の父、祖母、母、弟と3世代6人家族の賑やかな環境で育ちました。商店街の中にはほかにもたくさんのお店が立ち並んでいて、店先でお客様とのやり取りは女性が中心となる女将文化がありました。我が家も店先で商品を勧めたり、お得意様との良好な関係を築いたりするのは祖母や母の役割で、祖父と父が経営、経理や仕入れ先との付き合いなどを担当していました。これはおそらく家業という商売形態には典型的なロールモデルだと思います。
ですから幼い頃から周りの大人の女性も自身の役割として「仕事」を持っている人が多かったんです。商店街の友達のお母さんはみんな働いていたし、私の家の正面には倉敷中央病院という中核病院があり、長期間入院していた祖母の見舞いに頻繁に出入りしてましたので、看護師の方はとても身近でした。だから物心ついてから私の日常には「働く女性」しかいませんでした。
小学校4年生の時にお友達の家に遊びに行った時に、「専業主婦」のお母様がケーキを焼いて出してくれた時に、世の中にはこのような家庭があるのかと驚いた記憶があります。それほどまでに商店街では女性が店頭で働く姿が日常でした。我が家でも母は家事育児仕事の中心的存在で、特に祖母がスモン薬害で足を悪くしてからは店頭に出られなくなり、店の奥に座っていることが多くなりましたから、家族にとって母の役割はとても大きく欠かせないものでした。
祖母は積極的でアクティヴな性格だったのですが、やはり足が悪いですから店頭のみならずお得意様への配達なども必然的に母が一人でやっていました。お店でも一番働き、自宅に戻れば今度は子供の食事の支度などもやっていましたから相当大変だったのではないでしょうか。それでも母は仕事にやりがいを持ち、朗らかに過ごしていました。
柔らかな陽光で明るい日本橋本店にて
会話が苦手でほとんど会話しない性格だった
私は子供の頃はものすごくおとなしくて読書好きな性格でした。今の時代なら何かしらの症名が付けられるレベルで、人前ではほとんどしゃべらない子どもでした。
人前で話をするということにとても緊張を感じていましたし、声も小さくて。友達づきあいも苦手でしたね。その代わりと言っては何ですが、読書は好きで、毎週十数冊の本を読んでいました。会話をして外向きに表現することはできないかわりに、語彙力をひたすら自分の中に貯金していたのかなと今では思います。
商店街育ちですから近所の人に可愛がっていただける環境だったとは思うのですが、3-4歳くらいから私はそんな感じで人見知りになってしまったんです。
学校の行事には参加していましたが、例えば学芸会で何か役をもらって演技をするなんて全然無理で、語りやナレーションのような役割をしていました。でも、世界がだんだん広がる高校生くらいに気がついたら普通に会話ができるようになっていましたね。
普通のワンピースに見えるけれど、これも授乳服!
実はディープなオタクだった!
中学校は当時荒れていたのですが、クラスメイトはやさしくて割と親切にしてくれましたね。
これ今まで話したことが無いのですが実は中学校時代はサブカルにはまっていました(笑)。
今のコミケのハシリのようなものに参加もしていたんです。自宅の隣がライブハウスだったり、マニアックなレコード店が近くにあったり、書店も近隣に多かったり、そこで出会う、テレビでは流れていないカルチャーを語れる友人が現れたんですね。
オタクというと誤解されるかもしれませんが、当時私が魅せられたこうしたカルチャーも、世の中の型にはまらなくていい、クリエイティブな世界のアウトプットだと思いました。一つのことにマニアックに取り組むという姿勢も含め、今に通じているかもしれません。
多くの人に認められることを求めていない孤高感みたいなものも好きでしたね。そこで出会う人は高校生や大学生が多くて、そうした異なる世代の方たちとの交流も良い経験でした。
豊富なデザインから自分のライフスタイルに合わせた一枚が見つかる
「書く」ことで表現できる喜びを知る
当時、近所の学習塾で英語を教えていただいていた先生はとても有名な方で、映画「戦場にかける橋」のモデルになったと言われる旧陸軍の日本人通訳だった永瀬隆先生。
当時地元の倉敷で「青山英語学院」を運営されていて、単に近いので近所の子たちは通っている子が多かったんです。永瀬先生は本当にすごい方で、クワイ河に架ける橋の話を光栄にもご本人から伺っていたのに、その話はあまりにスケールが大きすぎて、当時中学生の私は半分先生の作り話だと思っていました。失礼ですよね(笑)。
その永瀬先生からなぜか目をかけていただいて、先生が関わられている地元のタウン誌に何か書いてみる?と機会をいただいて、書かせていただいたんです。自分から外へ発信するのに、話す以外の方法があること、世の中には色々な発信の仕方があるのだと気が付いた原体験かもしれません。
地元倉敷の高校で普通科に進学しました。部活ではなく、同好会に入りました。毎週1回くらい集まって読書会や議論をする会で、社会問題に対する意識が高い人が集まっていましたね。部落問題に対するシンポジウムに行ったりもしました。
私は「モノを書いて作る」という部分に興味があって入っただけだったのですが、今では人権弁護士で活躍されている方が同級生でいたりして、刺激を受けました。
(2日目に続く)
取材・編集:NORIKO 撮影:グランツ株式会社
◆光畑由佳氏 プロフィール
モーハウス公式サイト:https://mo-house.net/
岡山県倉敷市出身。お茶の水女子大学被服科卒。3児の母。
「子連れスタイル推進協会」代表理事
茨城県ユニセフ協会理事
筑波大学非常勤講師 など多数