今回ご紹介するのは、世界中を巡業している「国際文化交流舞踊団 曼珠沙華」の座長、藤中夢弥(ふじなか ゆめや)様です。17歳だった高校2年生の時に、ベラルーシのチェルノブイリ被災地を慰問公演。自分よりも幼い子供達が厳しい環境の中で暮らすのを目の当たりにしました。多くの海外公演をこなしながら、日本古来の文化や伝統を世界に広めています。
継続は力なり
見どころ
*留守がちな母の元、姉と二人で過ごした幼少期
*船橋から茨城県の田舎へ引越し、馴染めない自分…
*高校生で舞台デビュー
デザイナーの母の元、千駄ヶ谷に生まれる
東京、千駄ヶ谷に生まれました。当時は母が大きなアパレル会社を経営していたので金銭的には恵まれていて、世田谷の豪邸に住んでいました。その頃は母の仕事が絶好調でしたから、商品買い付けや、店舗運営、ファッションショーなどで母はほとんど家にはいませんでした。両親は多忙の中、すれ違いも多かったようで、私自身の幼少期の思い出はいつも両親の喧嘩の風景です(笑)。姉はとても冷静な人で、喧嘩している両親を見て「またか。」という感じなのですが、私はわりと感情的な方で「やめて!」と仲裁に入ったりしていました。たまたま父親の手が当たって降り飛ばされたりして、とばっちり受けたりもしてね(笑)。
今からは想像できないかもしれないですが、小さい頃は泣き虫で、恥ずかしがり屋でした。だけどひょうきんなところはあって、父が帰ってこないと落ち込んでいる母の前で、ふざけて変身ごっこなどをして元気づけていました。当時は、母が不在の時にはお手伝いさんがいたのですが、
卵焼きが好きだといったらしばらく毎日卵焼きが出たりと、大切にしてもらいましたね。その後、小学校1年生の時、両親の会社が自主倒産したので、そんな生活とも別れることになりました。母と姉と3人で船橋へ引越ししたんです。
姉と二人だけの小学校、中学校時代を過ごす。
母はそれからも仕事で忙しく、家を空けることが多かったので、子供の時はずっと姉と二人でした。小学校が終わったら姉と二人でスーパーに買い出しに行くような生活でした。小学校が終わったら姉と二人でスーパーに買い出しに行って、たまにフードコートでラーメン食べたりしていました。他の人から見たら小さな子供が二人で食事している姿って、寂しいですよね。でも寂しいと思ったことは全くなかったんです。姉がいつも傍にいたので。でも転校してきた私達がそんな生活をしていたので、学校では親がいないと噂を立てられたりもしました。見かねた同級生のお母さんが、焼肉屋さんだったので焼肉をたくさん差し入れしてくださったりしたこともありました。
母は有無を言わさない。とにかく恐い母でしたので、母が自宅にいる時はとにかく母を怒らせないように過ごしていました(笑)。「はい」しか言わない感じです(笑)。そんな母がある日突然、「引っ越しするよ」と宣言したんです。中学2年の時でした。友達もたくさんいますし、何よりあと1年で中学卒業なんですよ。こちらとしては全然嬉しくない。結城市は船橋に比べたら無茶苦茶田舎ですから。ものすごく後ろ向きでしたね。
1年しか通わないとわかっている新しい中学校に行ってみると、当然ながらみんな茨城弁。最初は何言ってるかわからなかったです(笑)。転校してすぐに登校拒否になりました。この時ばかりは厳しい母親も「行きたくないなら行かなくていいよ。無理しなくていいよ。」と言ってくれました。それはちょっと救われましたね。でもね、3日くらい休んでると自分が焦ってきたんです。中学校3年だし、受験もあるし。行かないのはやばいよなって、やっぱり行かなきゃ。って思うわけです。
学校に行こうと決めたのに、バチが当たって?自転車で大けが!
結局学校を一週間休んだ後、やはり行こうと思い立ったある朝、自転車で学校に向かったんです。そしたら自転車の車輪にキーホルダーがひっかかり、転んで顔から着地しました。そのまま脳震盪起こしたみたいで動けなくなったんです。ただ遠くでガーン、ガーンとだけ音がする。田舎ですし、線路脇に倒れていたので誰も通らなかったんですよ。やっとの思いで起き上がり、壊れた自転車を押して家に帰ると、家にいた姉は傷だらけの私を見てびっくりしましたね。
打撲もすごかったし、ムチ打ちのような症状も出たんで、相当な怪我だったと今でも思うのですが、病院には行かなかったんですよ。そこからまた二週間、良くなるまで学校を休むことに。もちろん学校には「学校行こうとしたのですが、自転車で怪我をしたのでまた良くなるまで休みます」と(笑)。
この事故が起きてから、すごく反省したんです。新しい学校に行かなかったから、事故にあったんだ!と。罰が当たったと思いました。こんなことしてたら駄目だ、変わらなきゃいけないと思いましたね。だから学校に行き始めて、演劇部にも入部しました。恥ずかしがり屋なので、一度も舞台には立ちませんでしたが(笑)。
実は部活でいじめられてた??? 高校時代
高校は自転車で通えるところにしました。高校一年生の時は思春期に有りがちな、勉強は嫌い、学校で悪いことしたい生徒で、学校に宅配ピザ呼んで怒られたりね(笑)。成績はクラス中38人中36番!自分より成績悪い2人は学校に来てない人でした(笑)。
部活は母に反対されたバスケ部に入りました。その中にマッチを持ってる友達がいて、火が消えた瞬間ジュッと皮膚に着けてくるんですよ。「熱っ!」とかリアクションするとみんなが喜んでくれる、と思ってたんです。家で母や姉に話すと「それイジメだよ!」と(笑)。そんなだからみんな部活をやめていくんです。で自分も辞めたいと思って母に相談したら「一度決めた事です、最後までやりなさい。」と言われて。最終的に部員3人まで減りましたけど(笑)。仲の良い友人たちが入ってくれて。今でも彼らとはすごくいい友達です。どんな事も受け止め、継続して一生懸命頑張っていると、いい結果が出るというのを感じ始めたきっかけですね。
一生懸命やることの楽しさを知る。
高校生活が面白くなってきたのは高校2年生の時からです。クラス替えで良い仲間たちに出会いました。毎日どうやって皆を笑わせようかと考えていました。極めつけはトイレットペーパー全身に巻いて学校に行った事です(笑)。
この頃から曼珠沙華の舞台に出るようになりました。自分と同じ年の、当時15歳で大衆演劇の座長が曼珠沙華の舞台に客演したんです。少し嫉妬心が芽生えました。そんな時に「人が足りないから舞台に出てみない?」と声をかけられて。姉も同じ時期にデビューしたので心強かったです。舞台を重ねることで少しずつ度胸もついてきて、学校も楽しいし、舞台も楽しい。一生懸命やることがとても楽しい事に気が付きました。学校の体育祭、文化祭も一生懸命やると楽しくて。生徒会の副会長にも立候補しました。立候補者演説の時に、生徒400人の前で何か面白い事しなきゃと階段上る時にこけて、演説終わった後に挨拶でマイクに頭ぶつけて吉本新喜劇の「アホの坂田」歩きで下がる。会場は大爆笑!見事に当選しました(笑)。
部活の試合か、曼珠沙華公演か、二者択一を迫られて…
高校時代のエピソードの一つに、自分がスタメンで出る大事な部活の試合と曼珠沙華の公演が重なった時がありました。どうしても試合に出たい。というか、私が出ないと負けるわけです。
母に相談したところ「4人の友達をとるのか、500人のお客様をとるか」とだけいわれました。結局部活の試合は出ないことに。先生にも友達にも事情を説明しましたが、なかなか理解してもらうのは大変でした。しばらく口をきいてもらえなかったです(笑)。そんなことも含めて私にとっては今でも大切な友人です。
DAY2では、高校卒業して二日後、初めての海外公演チェルノブイリ被災地エリア(ベラルーシ)公演へ行かれたお話からお聞きします!
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藤中夢弥(ふじなか ゆめや)プロフィール
本名:非公開
9月16日 千駄ヶ谷生まれ。
世田谷区、千葉県船橋市、茨城県結城市、常総市を転々とする思春期を過ごす
高校2年で初舞台、2010年曼珠沙華、2代目座長を襲名
日本舞踊宗家、西川流・西川瑞扇に師事
鼓玄正派源流御諏訪太鼓流家元・宗家鼓聖小口大八氏に太鼓師事
舞台では立ち役・女形・お笑い、振り付け・音楽編集・演出・構成に
至るまで曼珠沙華の舞台すべてを手がけている。
ホームページ:https://manjushaka.wixsite.com/manjushaka/about
曼珠沙華インスタグラム:https://www.instagram.com/manjushaka_offcial/
曼珠沙華フェイスブック:https://www.facebook.com/profile.php?id=100010549696003
曼珠沙華 YouTubeチャンネル:https://www.youtube.com/channel/UCBSGzA2SD4pSkeQAyOJnIoQ