25年間、世界の子供たちに和の文化で「心」を伝え続けてきたスゴい人!DAY1

2021 新春特別記事

今回ご紹介するのは国際文化交流舞踊団『曼珠沙華』代表であり設立者であるママローザ(藤中清永)さん。

㈱森英恵(ハナエモリ)VIVID専属デザイナーを経て20代でアパレルメーカーを設立、ヨーロッパでのショーも経験するほど活躍するも、自社ブランドが倒産。自身の生き方を変えたいとマザーテレサに拝謁し、今の活動を始めました。ハンセン氏病療養所やチェルノブイリ原発被災地などに赴くその姿勢に賛同し、国賓として招待される国も多々あります。舞踊という文化が人を慰め、国をつなぎ、時代を和らいでいく。その壮絶で壮大な藤中さんの人生を2021年初春企画として、4日間連続で配信いたします。

奇跡とは人と人との出合い

 

見どころ

*宮大工であり建築会社の経営の父親とそれを真珠養殖で支える母親のもとで育った子供時代

*子供のころの経験を活かし㈱森英恵vividのデザイナーになるまで

DAY2 DAY3 DAY4

破天荒な父をもつ15人家族の末っ子

三重県の尾鷲市出身です。13人兄姉の末っ子として生まれました。10女です。当時としても子沢山の家庭でね、学校の先生でさえすぐには信じてもらえないことがありました(笑)。父親は宮大工の2代目です。建築会社を経営していて、満州鉄道の下請けをしていたので、満州で暮らしていました。時々の帰国の際にはトランク一杯にお金を積んでいたそうで、かなり儲かった時代だっただろうと思います。

根っからの職人でしたから「職人は腕を磨け、勉強ばかりが人生じゃない!」といつも言っていました。満州の事業が終わり、帰国してからは家には帰らずお妾さんと静岡でおでん屋さんを営んでね、最終的には肺病になって戻ってきました。映画「父帰る」を地で行くような人でした。そんな父でしたが、亡くなる時にパッと起き上がり「矢口(住んでいる所の地名)の皆さんさようなら」と言ってから亡くなりましてね、すごく幸せな亡くなり方だなと思いますよ。ですから父親の存在については私にはほとんど記憶はなくて、18歳離れていた一番上の兄が父親代わりでした。

働き者で愛情深い母親を見て育つ

実家は住み込みの人達も沢山いる大所帯でした。父が日本にはほとんどいませんでしたから、母が住み込みの職人達を使って父不在の仕事を支えつつ、当時地元で盛んだった真珠養殖をしながら家庭を守ってくれました。本当に働きもので、どんな仕事にも手を抜かない人でした。年末になると帰省する住み込みの人達、一人一人におおきな重箱いっぱいにお餅、そしてたくさんのお土産を持たせていましたね。母はいつも「住み込みのあんにゃん達は家で寝泊まりしてるんだから私の可愛い子達だよ」といっていたのが印象的でした。また「住み込みのあんにゃん(お兄さん)たちが一生懸命働いてくれているお陰で私達はご飯食べられるんだからね」といつも話していました。お風呂も食事も住み込みのお兄さん達が先。父のお妾さんが諸事情で子供を育てられなくなり、その子を預かっていた時、お妾さんにもお小遣いを渡し、そしてお妾さんの子供も自分の子供と分け隔てなく可愛がる、肝っ玉母さんでした。

何にでも興味を持った子供時代

小学生の時から未生流のお花を習い始めました。お花をどうしても習いたくて、許してもらうまで寝る時、母の耳元でずーっと「お花、習いたい」と念仏を唱える様に繰り返し言い続けたので母が根負けしました(笑)。お花の先生がお茶の先生でもあったので自然に裏千家の茶道も習うこととなりました。志賀山流の日舞も習わせてもらいました。お花はやはり好きでしたので未生流ではお免状をいただくまでやりました。子供の時に好きな事を自由にやらせてもらえた環境が私の向上心を刺激してくれたんだと思います。

母は私を48歳の時に生んだものですから、本当にかわいがられて育ちました。姉たちに言わせると私は、放し飼いで育ったそうです()。思った通りすぐ行動に移すところはこの頃からですね。母のへそくりを盗んで、そのお金で私が近所に住む子供達に紙芝居を見せてあげたことがありました。近所にはまだまだ金銭的に恵まれない家庭の子もいましたから。私にとっては、うちはお金はたくさんあるのだから、分けたらいい。くらいの気持ちでした。その子供達が「きよちゃん、今日お味噌汁が飲みたいの…」と言われれば、うちは大所帯ですから台所には山のように調味料がありましたから、新聞紙にちょっと包んでお味噌をあげたりしていました。漫画を描くのが大好きで、学校では勉強よりノートの半分に漫画を書いているような子どもでした。お腹が痛いからとずる休みして布団にくるまって漫画を描いていたら、本当に腹膜炎になったことがあってね()。罰が当たったと思って、子ども心に嘘はついちゃいけないなと思いましたね。高校を卒業して東京に出るまで、習い事三昧、和裁、洋裁学校と興味あることを好きなように学びました。一番上の姉が経営する編み物教室に通い編み物認定1級教師の免状もとりました。姉からは「あんたは私の妹なんだからあなたは一番じゃなきゃ!」と言われて、本気になりましてね。姉が注文を受けたスーツを1日で編んだこともありました。そのお金を姉が30万円ためてくれていました。

デザイナーになりたいと東京へ

そのお金を基にしてデザイナーを目指して上京しました。いとこが主婦の友の編集者をやっていまして、ある日、㈱森英恵vividでニット部のデザイナーを募集しているよと教えてくれました。漫画を描くのは大好きだからスタイル画は描ける、そしてニットを作っていた経験もある、またとないチャンス!と応募してみたら何十人と応募した中からたった一人、見事合格しました。近くに桑沢デザイン学校がありましたから、vividのデザイナーとして歩くと、若い子達から憧れの目で見られてね~()。ニット部が解散するまで本当にいい経験させて頂きました。幼い頃から好きなように漫画を描かせてもらったことや姉の編み物教室での経験など、育った環境がすべて私を支えてくれた経験となりました。それとね、やはり大家族の末っ子として育ちましたからどんな人とも関われるコミュニケーション能力も培われたように思います。どこに行っても馴染むのが得意で上司にもかわいがってもらいました。

そうそう。近くにコロンバンがあったのですが、私が食べたくてケーキを買ってきて皆を誘ったんですね。こんな感じでvivid3時のおやつの時間を作ったのも私でした(笑)。いろんな意味で目立つ存在だったのではないでしょうか。森英恵さんのご主人の森賢さんが会社を回る時、なぜかいつも背中をたたいてくれましたから。

当時、森英恵さんのお姉さまの村上先生がvividの企画のトップでいらして、社員に時々ご挨拶に来て下さるんです。とてもきれいで上品な方で、いつも「ごきげんよう」とお話されていて。村上先生とはvivid退社後に私が自社ブランドを立ち上げて、フィレンツェに行ったときにフィレンツェの街の中でばったりお会いしたんです。もちろん「ごきげんよう」と。私が自分でブランドを立ち上げたことをお伝えするととても喜んで下さったことを覚えています。

vividニット部が解散、独立へ

大好きだったニット部が解散となりまして、その後片付けなどをしている時にニット用の毛糸や残糸が沢山ありました。上司にそれを使っていいかと許可を頂いて自分でオリジナルデザインで商品を作りました。「魔女」というブランドを作ってThe firstDo!Family 、原宿MILKなどに持ち込み、直接オーダーを取って売っていました。「魔女」を売り歩いたり色々なところでアルバイトしたりしていたら、あるメンズアパレルブランドのバイヤーさんに「貴女は才能があるのにもったいない、才能を切り売りしちゃいけないよ」と言っていただきその方の紹介であるメンズブランドでデザイナーとして入ったんです。そしたら、ワンシーズンで一気に4億の売り上げ!になりました。vivid仕込みのデザインや色使いは当時としては斬新でしたからね。ますます自分自身のブランドで勝負したいと強く思うようになりました。まだ20代でしたからね、我ながらエネルギッシュでした。

ライター:NOZOMI  校正:NORIKO 映像:グランツ

DAY2に続く

 

  • ママローザプロフィール:

本名:藤中清永(ふじなか きよえ)

12月18日 三重県尾鷲市生まれ

㈱森英恵VIVIDデザイナーを経て自社ブランド「グレープガーデン」を設立。

1995年1月国際文化交流舞踊団「曼珠沙華」を設立。衣装、デザイン及び舞台総合プロデュースを全て自身で行う。

茶華道家、仏画師、書道家といったマルチアーティストとして活躍する傍ら、人生経験をいかして企業研修など人材研修にも力を入れている。

 

ホームページ:https://manjushaka.wixsite.com/manjushaka/about

ママローザインスタグラム:https://www.instagram.com/mama_rosa1218/

曼珠沙華フェイスブック:https://www.facebook.com/profile.php?id=100010549696003

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