今回ご紹介するのは埼玉県川口市にある航空機手荷物入れ用ミラー世界シェアNO.1のミラーメーカー、コミ―株式会社の代表取締役、小宮山栄様。ご自身の才覚と努力で日本を、世界を便利にそして安全へと導いてきた方です。生活の中にある「?」を形にする。まさにマーケティングの王道を体現した方とも言えます。
コミ―株式会社 小宮山栄社長様 DAY1
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戦後日本の躍動期に育った
長野県小諸市で生まれ育ちました。姉2人と2才上の兄がいて、4人兄弟の末っ子でしてね。戦争がちょうど終わった時に小学校に入りました。尋常小学校が普通小学校に変わったころです。父は鉄工所をやっていたのですが、私が3歳の時に事故でなくなりまして、それからは母が懸命に育ててくれました。小学校では運動は苦手でしたねー。活発というよりはおとなしい子でした。母はあまりあれをしろ、これをしろ。という人ではなくて自然にのびのびと育てる方針の人でした。私が子どもの頃はまだみんな食べ物に苦労するような時代でしたから、白いご飯がご馳走でね。中学校に入っても経済的な面においては今とは比べられないくらいの時代でしたよ。
自由を謳歌した大学時代
高校は地元の進学校に進んで、地元の大学を出ました。大学は工学部で機械工学を学んでいました。大学生とはいえ、あまり熱心に勉強するほうではなくて(笑)、特に夢もなかったですよ。囲碁やったり、アルバイトやったりね。就職も今とは違って、売り手市場だったから、のんびりしてたかな。当時は就職する若者が金の卵と呼ばれるほどで、就職は好きなところを選べたくらい。今からは考えられないくらい、経済成長まっしぐらの時代でした。名のある造船会社、メーカー、自動車メーカーなどの大手にだって、希望すれば入れた時代でした。私は本当にいつも暇つぶしをしているような呑気な大学生でしたから、大きな会社に入れたらそれでいいや。というくらいの感じでしたね。就職する会社に対しては、社長が人を大切にする会社がいいなという思いがありましたので、最終的には日本精工株式会社という、ベアリングやボールねじでは世界一位の会社に入りました。
優秀な同僚に囲まれて
就職活動は面接だけでしたが、同期は70人くらいいまして、半分くらいは東大や京大などの一流大学卒でね。だけど私なんかでも入社と同時に大卒ということで工場に配属されてもちょっと別格の扱いだったんですよでも、もちろん仕事においては全然ダメ。当然です。大卒だと言われながら何にもできないんじゃいけないという思いが強くて、ただただ一生懸命に働きました。入社してから多摩川工場で、組み立てをやったりもしたし、技術部でも経験を積みました。でもね、やっぱりその一流大卒の同期と比べると記憶力というか、理解力の差というのは非常にコンプレックスでね。3年半で退職することにしました。脱サラというより落サラでしたが、いざ退職するとなるとね、会社の寮に住んでいた先輩や同僚たちにうらやましがられましたね。それには驚きました。みんな私より優秀で、サラリーマンに向いていると思っていた人たちですから。退職するときには、田舎の小諸市に帰って自動車の修理工場に就職するんだ。なんていって挨拶して回ったのですが、その時に「小宮山は会社を辞められていいなあ」ってね。今みたいに転職なんてそれほど自由な時代ではなかったですからね。終身雇用でしっかり働くイメージの人がほとんどでしたから、余計に「会社をやめることができた小宮山はすごい。」みたいなこと言われました(笑)。
一流企業を出て自分の力で生きていく
ところが、修理工場に就職してから25日くらいでクビになったんですよ(笑)。サラリーマンを辞めた解放感でね、社長にすごく失礼なことを言いましてね(笑)。若気の至りというんでしょうか。そのあとまったく売れない百科事典のセールスマンも体験しました。それでまた別の修理工場を紹介してもらったんですけど、そこはさらに別世界で、4人部屋に住み込みでね。最初の会社からしたら劣悪な環境。大卒なのは私くらいで、ただ、いろんな仕事をするのは面白かったですよ。車の塗装とかね。当時は私の日当が1000円だったのですが、一日だけで2万円位の仕事をしている20歳の男性がいたんですよ。興味が湧きましてね。どういうことだと。トラックの車体に社名や電話番号なんかの文字広告を手で描く仕事です。文字が書ければ生活していけるかもしれない。よし、これやろう!と思いました。まったく新しい文字広告の仕事ができたらこれはいいんじゃないかとまた転職したんです。劇場の看板や絵を書く会社に入りました。看板文字というのはいわゆる書道の文字ともまた違って、ある意味特殊技術でした。ある日新聞でシャッターの文字を書いて飯を食っている人の記事を読んだんです。なるほど、これをやってみようと。当時は巣鴨の近くに住んでいましたから、街中を見て回ってね、営業時間外でシャッターおろしている会社があるのを探しては直接営業に行って、シャッターにこんな風に文字を書きますからとサンプルを見せてね。一度決まると口コミで次々と依頼が増えて、レストランやいろんな商店のシャッターに書きました。シャッターに文字が書けるのは、シャッターを閉めている時間、つまりは営業時間外です。要は朝や夜の時間に書くわけですよ。一般の広告会社はそんな仕事は嫌がりますから、いわゆるニッチ産業です。誰もやらないことが仕事になりました。
独立、コミ―工業株式会社設立
ちょうどオイルショックの頃、コミー工芸株式会社という会社を立ち上げました。義兄が教師をしていて、生徒の一人が文字が上手だということで入社してくれ、私の女房役としてずっと一緒に歩んでくれました。文字書き業で弟子として入った人間が、商品開発してボーイングに納入できるような商品を作ってくれました。当時は主に看板製作をやっていたのですが、ある日これ回転したら目立つし、面白いんじゃないかとひらめき、回転する看板を友人と一緒に作って特許を取得しました。(1971年)これが30歳過ぎくらいです。それからはずっと回すことばかりを考えていました。
(明日へ続く)
インタビュー:NORIKO 翻訳:Tim Wendland
◆プロフィール
小宮山 栄(こみやま さかえ)
・コミ―株式会社 代表取締役
公式サイト https://www.komy.jp/
長野県小諸市生まれ 信州大学工学部卒 1968年コミ―工芸(現コミ―株式会社)創業
・一般社団法人 国際箸学会 会長
公式サイト https://kokusai-hashi.org/
・箸タイム 購入はこちらから https://www.hashiwaza.jp/hashitime
◆著書
◎「箸の話をきいてくれ」 2020年 コミ―物語選書02 840円