今回ご紹介するのは由緒正しい日本舞踊の世界へ大人になってから挑戦し、師範として活躍するスゴい人。その経歴は華々しくもあり、ストイックでもある。誰もが憧れる職業を次々に実現しながら、今も挑戦し続けているしなやかな女性。日本の伝統文化である日本舞踊の素晴らしさを若者へ、世界へと伝えたいという情熱を2日間でお伝えします
日本舞踊 尾上流師範 尾上五月様 DAY2
見どころ
-震災で失ったもの
―日本舞踊の道を究める
―コロナ禍で感じた人とのつながり
何もかもが焼けてしまった阪神大震災
震災当日、私は東京にいたのですが、親戚一同みな神戸が拠点でしたから被害は相当なものでした。祖父母の家や、親戚の叔父、叔母、いとこの家なんかも全員、全部、どこもかしこもひどい被害を受けました。兵庫区という場所で、昔ながらの長い商店街があった街です。震災後の火事で全焼した長田区からも近い街です。でもあの当時はどこもかしこも神戸では大きな火災が起きていたので、その中の一つですけれど、私の親族たちはほぼ全員被災しました。その火事がどれくらい酷かったかというと、私が通っていた小学校の校区は全て消失しました。小学校だけは焼け残ってね、周り一体焼け野原で。実家のあった場所から小学校まで遮るものが何もなくて。何一つ建物が無くて。その光景というのは今も忘れがたいです。幸い、親族は誰もなくなることは無かったのですが。
実家の薬局は地震で中はぐちゃぐちゃになりましたが、建物自体は建っていたんですよ。最初はね。だからうちの父なんかは最初、怪我人の手当てなんかを一生懸命やっていたわけです。消毒液などの薬もそろっていましたしね。近所の家が倒壊しているのをみんなで協力して瓦礫をどけて下敷きになった人を救助したりもしたそうです。早朝の地震でしたが、なんせ甚大な災害でしたから、夕方になっても何の助けも来ませんでした。重機も全然なかった。そうこうするうちに火の手が上がっていると。風向きからこっちに向かってきていると。2丁目が燃えている、3丁目も燃え始めた。うちは6丁目だったのですが、もうどんどん火事が近づいてきてね。もうこれは、これ以上は難しいと、みんなそこから避難したそうです。
神戸っ子の朗らかさを実感
震災当日の朝10時くらいに、母親から奇跡的に電話があったんですよ。2階の瓦礫の下から電話を掘り出して、とりあえず電話してみたと。連絡取れたのがそれ一回きりだったのですが、ニュースで神戸で火事が起きているというのを見ても、きっとどこかに逃げてくれて無事なはず。というのはあったので良かったですね。あれが無ければ、生死もわからず、本当に心配したと思います。夜空に赤い火が燃え盛る映像を、実家が焼ける映像をテレビで見ていました。あーもう、実家焼けたな。みんなどうか無事でいてくださいと祈っていました。それから2,3日後くらいに母から電話があって、「みんな焼けてしまった。あなたの宝塚時代の写真も緑の袴も制服も全部焼けてしまった。ごめんね。」と。そんなことどうでもよくて。ただ生きて逃げてくれてよかった、ありがとう。という思いでした。
今から思うとね、そんな大変な事態でしたが、神戸の人は明るかったと思います。前向きで力強くて。あとから両親に聞いたのですが、避難所がまだ大混乱だったので近所の新築ビルのお寿司屋さんの2階や3階にみんな避難させてもらって。お寿司屋の大将がもう生け簀も壊れたし、冷蔵庫も電気来てないからと言ってその生け簀のお魚で豪華な船盛をしてくれて。近所の人はその豪華なお寿司を震災当日はいただいたそうです(笑) こっちは生死もわからない親族を考えて気が狂いそうになっていたんだけど(笑)。でもこの話を聞いて。「あー、神戸の人らしいなぁ」って思ったんですよ。神戸の人ってなぜかへこたれないし、いつも前向きで。なんとかしちゃうとこあります。私の祖母は東京の深川の人で、13歳の時に関東大震災を経験しているんですよ。神戸にお嫁に来て、何十年もたって今度は阪神大震災。彼女が言うにはね、関東大震災よりも阪神大震災の方が揺れがすごかったんですって。両方経験している人もなかなかいないとは思うけれど、その祖母がすごかったというほど神戸の震災はひどかったんですね。
宝塚OGとの縁と絆
そんなことがありながらも私は東京で自分の夢である日本舞踊を続けていました。年齢的にもキャリア的にも遅咲きでしたらやはり頑張らなければという思いはありましたね。名取と取得してから2年で師範になって、お教室を開きました。神戸に花隈(はなくま)という町があるのですが、昔は京都の祇園みたいな町だったのだけれど、もう芸妓さんとかもいない町なのだけれど。宝塚の知り合いのつてで、そこで日本舞踊のショーをできないかと依頼があって。同期生4名と一緒に「炎樹」(えんじゅ)を立ち上げました。宝塚っぽい、現代的な音楽と日本舞踊で編成したショーです。ロータリークラブや、ライブハウスなんかでもお声がかかるようになって。アップテンポの曲に合わせて早変わりなんかも入れた演目だったので割とあちこちからお声かけていただくようになりました。
今も機会があればメンバーを入れ替えつつ開催しています。まあ、我々も関西の人間ですから、笑いの要素も取り入れたとても楽しいライブショーになっていてね、たまたまご覧になってくださったオール阪神巨人の巨人師匠に「その辺の芸人よりずっとおもろい」と言われました(笑)
「歌」で人の心を安らかに
またこのコロナの中我々にできることは無いかと思い、宝塚OGによる「すみれの花咲くころ」をリモート合唱で映像を作りました。このきっかけとなったのは、ほかでもない65期生同期の杜けあきが仙台出身で、震災の時に音楽が人の心を癒すことを実践していたこともがありました。被災地の慰問で「花は咲く」「すみれの花咲くころ」を歌唱した際に人々が感動し、音楽の持つ力を知っていました。また、もう一人、卒業後に看護師になった子がいて、医療従事者としての心情を知る機会があったことも大きかった。コロナの影響で我々の礎である観劇はもとより、エンタメの開催自体が危機的状況でしたし、我々宝塚OGとして社会に何ができるんだろうと皆で相談して、今できること、今しかできないことをやろうと思いました。震災の時と同じで人は危機的状況にはまず自身の無力感に襲われるのが常です。今回は日本中、世界中で多くの方が命の危険にあり、大切な方を守るために会わないという選択を強いられていたわけですからなおさら、心がつながっていることを示したいと皆が思いました。YouTubeにアップしておりますが結局Vol.4まで制作しました。これは全て善意のボランティアによって制作されたのですが、今終わって思うのは、やはりみな誰もが社会から、誰かから必要とされたいという思いがあること。一人では何もできない私たちですが、みんなで力を合わせたら今回社会に明るい光を灯すことができた。この事実が思いがけず一人一人の、参加者の、ファンの方の心を照らすことができたというのを誇りに思います。
15歳の私の決断で得た宝塚の仲間が、40年以上たった今も確かに私の人生を彩ってくれているのだと痛感した出来事でした。
日本舞踊を世界に広めたい
宝塚と日本舞踊という私が深い縁をいただいた2つの世界には共通していることがあります。人は所作一つで見ている方に性別を印象付けることができるのです。私は宝塚で男役を演じ、日本舞踊では男役も女役も演じます。自分の心ひとつで誰にでもなれるのです。この長い歴史の中で醸成されてきたこの緻密な文化を私はもっと多くの人に知っていただきたいのです。
日本舞踊のイメージは、伝統芸能であり、小さなころから習い、そしてすごくお金がかかるという感じだと思います。私は大人になってから始め、自分で働きながら師範になりました。大好きな日本舞踊の世界に私ができる恩返しができるとしたら、幅広く、子供から大人まで、そして世界の方々にまで日本舞踊を知っていただくこと。手の動かし方ひとつで相手に与える自分の印象が変えられるというこの事実を知っているか知らないかでは人生が違うとさえ思っています。
コロナで世界の状況は一変してしまったけれど400年以上の歴史を誇る日本舞踊にとってはほんの一瞬のことにすぎません。今後少しずつ落ちつきを取り戻していく世界へ日本舞踊の素晴らしさを伝えることは私の使命だと思っています。
取材:Noriko 翻訳:Tim Wendland
◆Profileプロフィール◆
日本舞踊 尾上流師範 尾上五月(おのえ さつき) 公式HP
日本舞踊尾上流師範・新舞踊加賀流師範
元宝塚歌劇団月組・五月梨世
(公社)日本舞踊協会会員
劇団東俳・音響芸術専門学校講師他
TV・ライブ出演など多数
◆ライブ情報 オンライン申込
2020年10月10日 第16回 さつき会 日本舞踊ライブ
【取材を終えて】
いつも凛とした佇まいで、コロコロと可愛らしい笑い声の五月師範。着物の着こなしも粋でおしゃれで見惚れるばかり。見学させていただいたお稽古場では、お弟子さんへのきびきびとした指導と、お弟子さんの真摯に学ぶ姿勢が作るその空気感が清々しかった。今回の取材を通して五月師範が歩まれてきた日々の積み重ねを知り、この朗らかな性格が昨日や今日に作られたのではないのだと実感しました。誰もが憧れつつも皆がなれるわけではない、宝塚男役、スポーツキャスター、日本舞踊の師範という立場。そこにはいつも彼女の挑戦する勇気と真摯に努力する姿勢があったのだと思います。これから私たちが生きるポストコロナの時代に大切にしなければいけないヒントをいただいたように思いました。