宝塚、スポーツキャスターを経て日本舞踊の師範になったスゴい人DAY1

今回ご紹介するのは由緒正しい日本舞踊の世界へ大人になってから挑戦し、師範として活躍するスゴい人。その経歴は華々しくもあり、ストイックでもある。誰もが憧れる職業を次々に実現しながら、今も挑戦し続けているしなやかな女性。日本の伝統文化である日本舞踊の素晴らしさを若者へ、世界へと伝えたいという情熱を2日間でお伝えします

日本舞踊 尾上流師範 尾上五月様  DAY1    

     DAY2を読む                                                                            YouTube

見どころ

-自然な流れで宝塚の世界へ

―テレビの世界に魅せられて

―大好きな野球を紹介する天職

宝塚という空気が日常の中にあった

父方の遠縁にね、南風洋子という宝塚のトップスターの親戚がいたんですよ。彼女がトップスターだった現役時代というのはもちろん知らないのだけれど、その縁で宝塚観劇という習慣がうちの家族にはあったんですよね。だから小さな時から祖母や叔母に連れられてよく観劇しておりました。実家が神戸ということもあって自然に、私自身に記憶がないくらい幼い時から、「宝塚に入って男役になる」と話していたようです。宝塚というのはもう、男役が花形ですからね。要はトップスターになる!と豪語していたわけです() 幸い身長もあったので、入学後は無事に男役になれました。

 

両親はそんな私の想いを知っていたので、小学校のころからピアノ、バレエなどの習い事に通わせてくれていました。宝塚に入るのだという意思は子供ながら本当に強かったので、高私立の中高一貫校受験をしました。宝塚受験と高校受験が重なると大変ですから。6年制の私立の女子校を受けて。中学校卒業と同時に宝塚に入学するという人制設計を幼いころから立てていました。ただ、そうはいっても当時薬局を経営していた両親にしたら、そのうちどこかで諦めるだろうと思っていたところもあります。特に父は、親戚の南風洋子が有名になって、親族として色々苦労というか、不便をした経験もあったでしょうから、私の宝塚入学には大反対でしたね。やっぱり芸能の世界に娘が入るというのはなかなか喜ばしいことではなくて。薬剤師の母も教育熱心でしたし、礼儀にもとても厳しい家庭でしたが、私の夢は応援してくれていました。

 

憧れの宝塚入学

中学を卒業して無事に15歳で宝塚に入りましたが、当時は鳳蘭さんとかの第一次ベルばらブームのおかげで宝塚がむちゃくちゃ人気があってね。倍率が跳ね上がったんですよ。20何倍だったかな。だから周りは受かるわけないと思っていたと思います() あー、宝塚入りたいって言ってるわー。なんて感じだったでしょうね。() 当時は宝塚のチケットも本当に取れなくて。自分でも勝率は55分かなというところでしたから、合格できたのは本当に幸運だったと思います。

 

まだ個人情報という考え方も無かった時代でしたから、合格発表者がフルネームで掲示されるのですが、夕方のニュースで私の名前が映り込んでしまって。受験番号順で2番目だったので目立ったんですよね。その日はお祝いの電話が鳴りっぱなしでした。大変厳しい受験状況だったのであまり周囲には受験することを明かしていませんでしたから、結構みなさん驚いてくれた方も多かったと思います。通っていた学校にも内緒にしていましたから、随分怒られました() でも卒業した後にはそのすごく怒った担任の先生も宝塚を観に来てくれたりもしましたね。

 

よく都市伝説のように言われる、「廊下は直角に歩くんですか?」「阪急電車にはお辞儀をするんですか」っていうのはあながち間違いでもなくてね() 2年間の音楽学校というのは本当に厳しくて。1年目は予科性といって、制服や髪形とかも厳しく決められています。靴下も三つ折りだし、化粧もダメ。とにかくひたすら怒られて、ひたすら謝る。2年生の本科生になると鞄も化粧も自由。天国と地獄くらい違うの()

私は寮じゃなくて自宅から通学していたんですが、まず早朝6時半から掃除でしたからねまだ暗いうちに自宅を出るなんてことも多かったです。そのあと8時半から授業が始まります。掃除場所は持ち回りで、学校から決められた場所を1年間担当するのですが、楽な場所ときつい場所とあってねー。私は比較的楽な楽器庫でした() ピアノがある部屋なんかの、上級生が朝から出入りする場所を掃除する担当の方なんかはとても緊張しながら掃除されるので大変やったと思います。今で宝塚OG同士ではどこの掃除を担当していたかというので結構盛り上がります()

 

突然のTVドラマへの大抜擢

本科生の時に一番好きだったのはやはり日本舞踊でしたね。祖母の影響もあって、小さい時から時代劇をよく見ていて。お姫様なのに、戦ったらすごく強い女性像に憧れがありました。

そのイメージもあって日本舞踊にも入りやすかったかもしれません。

本科生を卒業して入団してすぐに、当時の宝塚としては異例のテレビドラマ出演がありました。関テレの三銃士というドラマだったのですが、音楽学校卒業間もない私と他のメンバーが主役などのメインキャストに配役されましてね。私はアラミス役でした。まだ宝塚大劇場での経験も全くないうちにテレビに出たものでしたから、実力よりも先に名前が売れてしまって。当時はジレンマと言いますか、まだまだ未熟な自分なのに。という思いが強くありました。その後にNHKの「虹を織る」というドラマにも続けて抜擢されましてね。その傍らで月組公演のお稽古もしていて。スケジュール的にも1231日の大晦日に紅白歌合戦に出てから、始発の新幹線に乗って神戸に帰り、元旦からの正月公演に出演するという年もありました。結構大変でしたねー。

 

そうこうするうちに、私の中で次第にTVのお仕事に興味が出てきてしまって。少し早いですが、宝塚を退団することにしたんです。実は私こう見えてプロ野球が大好きでしてね。スポーツキャスターのお仕事の話なんかもいただくようになり、そちらで随分忙しい生活を送るようになりました。キャンプへの密着取材に行かせていただいたりして、とても楽しかったです。ただそこは、女ばかりの宝塚で厳しく躾けられた私にはまったく新しい世界で。当然ながら男ばかりの世界で、女性として女性らしく存在することというのが最初はとても難しくて。男役に憧れ、男役としてずっと生きてきましたから、女性なら普通のことが、まぁ難しかった()

 

日本舞踊との出会い

そんなころ、やはり親戚の南風洋子が当時は劇団民藝で女優をやっていたのですが、「すごくいいから行きなさい」と背中を押してくれました。彼女が師事している尾上流尾上菊保先生にご指導をいただく事となりました。日本舞踊は自分の幼少期から宝塚時代を通してずっと親しみがあったので、改めて「きちんとやりたい」と思い始めました。28歳くらいだったかな。南風洋子は私にとっては本当に大きな影響を与えてくれた人です。日本舞踊って当時の私はお金がかかるだろうと手が出せないでいたのですが。その点もお金はそんなにかからないから大丈夫よと太鼓判を押してくれて。

ちゃんと正式に日本舞踊を習い始めてからは本当に楽しくて。ただただ日本舞踊を習うのが楽しくてしょうがなかったです。次第にプロになりたい、名取になりたい、師範になりたい。という意識が自分の中に芽生え、育っていきました。そんな思いを抱きながら毎日を過ごしていたころ、あの阪神大震災が起きたんです。(明日へ続く)

 

さて、尾上五月師範の激動の前半生を伺ってまいりましたが、彼女が30代半ばの1995年に地元宝塚を襲ったあの阪神大震災が起きました。生まれ育った宝塚が大きく壊れていくのを彼女はどう見守ったのか。明日はここからお伝えします。

取材:Noriko 翻訳:Tim Wendland

◆Profileプロフィール◆
日本舞踊 尾上流師範 尾上五月(おのえ さつき) 公式HP
日本舞踊尾上流師範・新舞踊加賀流師範
元宝塚歌劇団月組・五月梨世
(公社)日本舞踊協会会員
劇団東俳・音響芸術専門学校講師他
TV・ライブ出演など多数

 

◆ライブ情報 オンライン申込

2020年10月10日 第16回 さつき会 日本舞踊ライブ

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう