1980年日本に「ツッパリ」ブームを巻き起こし、「ツッパリ」ロックンロールバンドを継承しているスゴイ人 

今回登場するスゴイ人はリーゼントの髪形にサングラス、革ジャンにドカン(ズボン)という独特の服装で「ツッパリ」、「暴走族」といった当時の時代風潮に乗り1980年代前半に一気に若者の人気を獲得したスゴイ人“TCR横浜銀蝿RSR”。

なぜ38回のオーディションを諦めることなく受け続けたのか。どのように一世を風靡したロックンロールバンドが誕生したのか?

さぁ
メインボーカル翔さんの登場です。

 

ツッパリとロックンロールとの出会い

横浜銀蝿の誕生

心に決めていた解散と3つの目標

ツッパリとロックンロールとの出会い

ロックンロールに目覚めたのは14歳、中学生のとき。
ミックジャガーが好きな岡野君という友人がいてね、彼の家で偶然チャックベリーのレコードを聴いたのが最初のロックンロールとの出会いだった。
ものすごい衝撃を受けたことを、今でも覚えている。

チャックベリーがいなかったら、俺はロックンロールをやらなかっただろうな。俺はチャックベリーの全てに感動したんだ。
その声、ギターのフレーズ、音色。彼は自分で曲を作り、自分でギターを弾き、そして自分で歌うんだ。そのスタイルに、もの凄く憧れた。

当時は世界中の誰もが、チャックベリーの曲をカバーしていた。 ビートルズでさえも・・・。
調べれば調べるほどチャックベリーの凄さにハマっていった。レコードに付いている歌詞カードを隅々まで見て研究したもんだよ。
昔は映像を手に入れるのが難しかった時代で、ダビングにダビングを重ねた映像をようやく手に入れて、動いているチャックベリーを見たときは本当に感動した。
彼のステージングは、あの頃の俺の想像をはるかに超えていたんだ。

ダックウォーク・・・、知ってる? 未だに俺にはできない(笑)

横浜銀蝿の原点

高校に入ってJohnny と出会い、ロックンロールバンドをやろうと2人で始めたんだ。
それから他のバンドメンバーを集め、オリジナル曲を作って高校の文化祭で歌った。

それが後の「横浜銀蝿」となる。

高校卒業後、ドラムが脱退してね。そこに入ってきてくれたのが、俺の実兄の嵐さん。
年上で頼りになる兄貴は、自然にバンドのリーダー格となった。

その頃のバンド名は「銀蝿」。俺達がプロデビューを目指し始めた理由は、ずばり「女にモテたい」から(笑)
1970年代のアマチュアバンドの売り込み方は今とは全然違っていて、芸能プロダクション かレコード会社に直接自らデモテープを持っていき、聴いてもらう・・・。うまくいけばオーディションにこぎつけることができて、実際に演奏を見てもらえるんだ。そこでダメだとなったなら、はい、おしまい・・・。

実にデビューまで、37 回のオーディションに落ちた。でも、一度も諦めなかった。
どこかで一度でも諦めていたなら、今の僕らはない。諦めないで生きる姿こそ「ツッパリ」なんだ。銀蝿の原点はツッパリ続けることだからね。

横浜銀蝿の誕生

そして38回目のオーディション。それはユタカプロダクションだった。
社長の大坂さんがオーディションの演奏をオープンリールで録音してくれていた。

オーディション終了後、大坂さんがそのテープを箱に入れて、「はい、これ聴いてがんばりなさい」と言ってくれた。
リーダーの嵐さんはそれを認めてくれたと勘違いして、次の日から毎日プロダクションに通い始めた。(笑)
実はその時の大坂さんの真意は、テープを聴いて自分たちの下手さ加減を認識してもっとがんばりなさい・・・だったのに。

しかし、そんな嵐さんを大坂さんは面白いヤツだと感じて、嵐さんだけがプロダクションに所属することになったんだ。嵐さんはその後、メンバーとなるTAKUと出会い、デビューをもくろんでいた。
TAKU のパートはベース。そのバンドがデビュー直前、喧嘩別れして解散した。抜けたのは、ギターとヴォーカル。

人生って、面白いね。そこで嵐さんが、新たに声をかけたのが、 俺とJohnny。
こうして、嵐、翔、Johnny、TAKUの4人が集まった。
大坂さんの提案もあり、このとき「銀蝿」は、「横浜銀蝿」となった。

不良の嗅覚でセンセーショナルデビュー

プロダクションが決まっても、レコード会社が決まらなければデビューできない。
幸い、大坂さんの手腕で、複数のレコード会社が手を挙げてくれていた。

そんな中、「デビューしてもほとんどのバンドは売れないよ。オリジナル曲だけで勝負したいとか言ってるけど、ずーっと作り続ける覚悟はあるの?」と、一番キツイことを言ってくれたのが、当時キングレコードにいた水橋春夫さんだった。それで俺達は、キングレコードに決めたんだ。

良いことばかりを言う人より、一番キツイことを言ってくれる人について行こうと思った。それはまさに「不良の勘」だった。結果、それは正解だった。

心に決めていた解散と再結成

デビューの時俺達は、キングレコードに大風呂敷を広げた。
俺達は、2年間で完全燃焼して解散します。その2年間で、次の3つを達成しますと。

「シングル1位」 「LP1位」 「日本武道館を満タンにする」
デビューするときに、もう解散する日を決めていた。それが俺達の「覚悟」だった。

1980年9月21日、横浜銀蝿デビュー。

結局2年間で、シングル1位だけは取れなかった。
悔しかったので、1年延長してもらった。

結果、シングル1位も取り、目標3つ全てを達成したので、デビューから3年3カ月後の1983年12月31日、横浜銀蝿 解散。
1998年、ファンの待望に応える形で横浜銀蝿 復活。
その間ファンはずっと待ち続けてくれた。感謝しかないね。

銀蝿にしかできないこと

俺達はいつも、俺達にしかできないことをやろうとした。

暴走族にしか書けない曲を作った。 “ぶっちぎり Rock'n Roll”
不良にしか書けない曲を作った。 “ツッパリ High School Rock'n Roll”

いつでも同じスタイルでいよう。リーゼントにサングラス、革ジャンにドカン。
3年3カ月、俺達はずっと同じ格好をしていた。家を出るときから、帰るまで。

そして、俺達の知名度は上がっていった。

復活そして挑戦

今年2018年は、横浜銀蝿 復活 20 周年。
そして俺は還暦を迎え、60歳になった。

だから横浜銀蝿で、60歳 60曲ライブをやると決めた。

5時間以上のステージになるだろう。
まさに「挑戦」だ!

若者へのメッセージ

最高に輝いていた時代を過ぎてしまった俺が、今貫く4つのこと。

「継続」 「真髄」 「追求」 「挑戦」

どれか1つでも欠けたら、音楽をやめることになるだろう。

現代は、何でも手に入る時代。俺達の頃とは、何もかも違うからね。欲しいものも、目指すものも、悩みごとも、きっと俺とは一致しない。ただ、どんな時代であれ、自分が抱える問題や悩みを乗り越える力を持っていてほしい。 自分が本当に輝ける時間は短いよ。マジで。やりたいことはやっていく。諦めなければ必ず、物事は成すから。

                                      <編集部推薦再掲載>

取材を終えて

40年間同じ想いで走り続けている翔さん。その同じ想いとは「ツッパリ人生」
どんな事にも諦めず「挑戦」し続けてきた。
「真髄」物事の中心・精神ともいうべきもの。その道の奥義(おうぎ)。を貫く姿がある
そんな大人の背中があるからこそ、その背中を見て多くのファンが40年間翔さんを追い続けているのだと思いました。そして常に上を行く「挑戦」があるからこそ翔さんの魅力は輝き続けている。生き様が見本となることこそが翔さんの役割なのではないかと思いました。

◆プロフィール
神奈川県横浜市戸塚出身。1958年生。兄は同じく横浜銀蝿のリーダー嵐ヨシユキ。
1979年9月21日 - 横浜銀蝿、正式結成。
1980年9月21日 - シングル『横須賀Baby』、アルバム『ぶっちぎり』でデビュー。1983年12月31日 - 横浜銀蝿解散。
1985年 - ソロ活動を開始。
1998年1月1日 - 横浜銀蝿再結成。
出演映画『白蛇抄』(はくじゃしょう)(1982)など多数。
出演TV SMAPxSMAPなど多数
2018年よりFM戸塚にてラジオ番組開始

◆公式サイト
TCR横浜銀蝿RSR

◆ライブ情報
横浜銀蝿 凱旋!戸塚集会!
横浜銀蝿 復活 20 周年 戸塚公会堂 開館 40 周年
翔 生誕 60 周年 還暦 60 歳 60 曲コンサート
開催日:2018 年 9 月 23 日(日)
開場:13:00 / 開演 14:00
会場:戸塚公会堂 横浜市戸塚区戸塚町 127 戸塚センター3 階

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