商家では長男が家を継がない
組合から除籍、クビに…!
変えていくべきこと
アスファルトの道路から歴史を感じる木の門をくぐると、そこはタイムスリップしたかのような雰囲気の伝統的な京町家。
本日登場するスゴい人は、350余年ののれんを引き継ぐと共に、「大正友禅」染め長襦袢を復活させ守り続けている。
京町家を初めて一般公開したり、テレビや雑誌などにも多く出演。
新しく珍しいものに興味があったことから、常に業界初の挑戦をしてきた彼に降りかかった出来事。
信念を貫いた日々、今でもなお業界のために歩み続けている。
さあ…
丸栄株式会社
相談役 川﨑 栄一郎様の登場です!
伝統的な商家に生まれた
生まれは京都の中心部、着物の裏地を扱う伝統的な商家の長男として生を受けました。
小さい頃は家業が全盛期に近くて、従業員は100人くらいいましたね。
兄弟は3人、それぞれに女中さんが付いていたり、台所担当の女中さんや男衆さんがいたり。
玄関は3ヵ所あり、客人用・家人用・使用人用と使い分けられていました。
昭和40年代まで1人1人が決められた位置でお膳で食事をするような、伝統的な京都室町の商家でした。
小学校の頃はガキ大将、でも学校の成績は良かったんです。
賢かったけれどやんちゃばかりしていて、親がいつも謝り回っていました。笑
商家では長男が家を継がない
僕は長男で妹が2人。
一般的には長男が家を継ぐと思うでしょ?
ところが商家ではほとんど長男は後を継ぎません。
娘に優秀な婿を取るのが商家の習いなんです。
だから僕は元々、家を継ぐというイメージは持っていませんでした。
長男は好きなことをしていて良い。
だから僕はこの業界に入るまでに、違う業種を2つ経験したんですね。
銀行マンと、中国旅行の開発を。
新卒で富士銀行(現・みずほ銀行)に入社し、国内外で仕事をしました。
その後、中国に自由に旅ができなかった頃、中国旅行の旅行開発の仕事を。
どちらも小学生の頃から習っていた英語がとても役に立ちました。
中国語も学び、3ヶ国語できることで、今ではここ紫織庵での案内や海外旅行などで不自由したことはありません。
職種が違う2つの職業を経験している人はこの業界では少ないと思いますよ。
本来は家業を継がない商家の長男だからこそ、経験できたことでした。
しかし、父が倒れたことがきっかけで僕が継ぐことになりました。
全盛期の自社に入社
僕の会社は川﨑家としては2代目ですが、のれんはとても古く、1666年創業で352年の歴史があります。
父は滋賀県出身で京都の名門白生地商「小泉合名会社」に勤務していました。
第2次大戦前の昭和15年に別家独立して開業。途中応召で中断、
昭和29年に本家小泉合名会社が廃業になり、本家社員とのれんの一部を引き継ぎ飛躍的に発展しました。
昭和50年代から60年代には長襦袢地や裏生地のトップメーカー商社に成長。
僕が30歳を過ぎて家業に入った頃が全盛期でしたね。
関連会社を含めて年商88億、従業員150名、超優良会社でした。
しかし、呉服業界、この頃から縮小に転じ、京友禅のピーク時からすると、現在では京友禅の生産は最盛期の3%程度になってしまいました。
この統計も、インクジェットやプリントを含んでいるので、伝統的な京友禅に限ると実際は2%くらいになってしまっていると思います。
父と僕2代の間にこんな大きな縮小変動があり、どう生き残るのかが鍵となりました。
次々と革新的な行動に出る
買う人も作る人もどんどん減っている中で、他と違うことを試みました。
まず蔵に残っていた華やかなでおしゃれな大正時代のデザインの長襦袢の復元を考えました。
しかし、どこの染色工場も復元することを取り合ってもらえない中、60歳過ぎの老職人が16歳の時に作っていたよ!と引き受けてくれ、昔の大正友禅の長襦袢の復元がスタートしました。
しかしその長襦袢、長襦袢は薄いピンクが当たり前、「こんなもん長襦袢ちゃう!」と問屋さんに言われて, 1年近く全く売れませんでした。
そこで、着物雑誌で宣伝をすることにしました。
多額のお金を出して季刊の着物雑誌に1年間6ページずつ、母をモデルにして掲載し、
その雑誌を見て、仙台の小売店が興味を持って京都まで来てくださった。
たった一人だったけれど、理解をしてくれる人がいたことは心強かったです。
その後、相手によって価格を決めたり、同じ商品が10万円や100万円になったりするきもの業界の商品価格を全国統一価格にしたことや、問屋を抜いて自社で直販することや委託販売をしないことなど、業界の常識を覆す革新的な販売方法を始めました。
組合から除籍、クビに…!
着物は委託が当たり前、価格を決めないのが当たり前、問屋さんを通じて販売するのが当たり前。
当たり前ではない行動に出た僕は、組合から除籍させられ、明日にでも潰れるぞ!と言われました。
いろんな人にめちゃくちゃ言われたり、白い目で見られたりもました。
それが一番辛かった。
当たり前が通じないこの業界、あらゆる問屋さんがお前のところからは買わん!と言ってきたり。
でも僕の信念は、消費者目線でものづくりと買いやすい価格にすれば必ず売れる!ということ。
その後、除籍になった組合から5〜6年経って連絡がきましたよ。
直販や価格決定はどうしたらいいか講演して欲しいと。
僕の信念は間違えていなかった、だから30年間続けてこられたと思います
変えていくべきこと
よく京都の人は「伝統は継続なり」と言います。
伝統は途絶えてしまっては元も子もありません。
そして、父の出身である近江商人には「三方よし!」という言葉があります。
『売り手によし、買い手によし、世間によし。』
現代を生きていくためには、それだけではダメなんですね。
時流に合わせて、どう対応していくか、見極めるか、変化するかということも大切です。
今のままだと、職人さんは育たないし、相手によって価格がまちまちなことは、消費者に不信感を与えかねません。
例えば、若い職人さんを育てるためには何年も年月がかかりますよね。
それを面倒見るために、少々難のあるものが出ても買い取って、自社で処理し、
双方に損害が出ないような策をとることも、三方よし+αの精神だと思っています。
今、目の前で消えいく染色技術がたくさんあるんです。
今後は大学や行政の方とともに、次の世代に伝統的なデザインや染織技術を残していく仕事をしたいと思っています。
これからの人生も…
僕は業界の革新的なことをしてきました。
昔から、簡単に言うと珍しいもの好きと、好きなものは徹底してやる!という性格だったので。
しかしその中でも、守らなければいけない伝統もあります。
僕らの父世代は戦前の生まれだからこの業界のことをよく知っている。
戦後、昭和にスタートした僕らは、平成に生きる業界人に伝えていくべきことがたくさんあります。
業界の良い習慣、悪い習慣、面白くて趣味性豊かな戦前の長襦袢やきもののデザインの紹介などを執筆して出版したいと思っています。
さらに、減りつつある本当の友禅技法をどう守るか、若手をどう教育していくか、という仕事も継続していこうと思っています。
これからも周りが驚くようなことをしますよ!
今年の夏ごろ、楽しみにしていてください。
取材を終えて
今年2月に相談役になられた川﨑さん、ご自身の生涯をかけて業界の文化を伝えていきたいとおっしゃっていました。
呉服業界では珍しく、異業種を2つご経験されたことで外国語の必要性・重要性についてもお話しくださいました。
英語に中国語など、語学は最低3ヶ国語が必要、だそうです!
京のじゅばん&町家の美術館として一般公開されている紫織庵さんでは、和洋折衷の雰囲気を楽しめます。
京都に行かれた際には、ぜひ訪れていただきたいです。
プロフィール
川﨑栄一郎(かわさき・えいいちろう)
丸栄株式会社 相談役
川﨑栄一郎 略歴
昭和23年8月29日生まれ
昭和46年3月 同志社大学経済学部卒業
昭和46年4月 株式会社富士銀行入社
昭和52年3月 株式会社日本旅行開発入社
昭和55年4月 丸栄株式会入社
昭和59年3月 丸栄株式会社常務取締役.
昭和62年3月 丸栄株式会社代表取締役社長
平成30年2月 丸栄株式会社相談役
京都織物卸商業組合青年部会副幹事長(昭和61年一昭和63年)
京都呉服青年会会長(平成4年度)
2009年度きもの学講師
この間、国立京都工芸繊維大学大学院工芸学科、京都博物館等協議会主催連続市民講座、ナイトミュージアム、京都市文化財保護課マネージヤー研修会、朝日カルチャーセンター、経済雑誌ダイヤモンド社などで多数講演、NHKEテレ「美の壼」、など多くのTV番組に出演、監修。