テレビマンとしての原点は大学の学園祭
笑いの難しさを思い知らされた『元気が出るテレビ』
伝説の企画、猿岩石のヒッチハイクが生まれた理由
Tプロデューサー。
この一言を聞くだけで、学生時代にはまった番組が頭をよぎる。
奇想天外な企画の数々。
いったいどんなマジックを使ったら考えつくのだろうか。
話を聞いてみると、とてもシンプルな彼の行動哲学が見えてきた。
さあ…
日本テレビ 日テレラボ
シニアクリエイター 土屋 敏男様の登場です!
テレビマンとしての原点は大学の学園祭
僕の原点は、大学の学園祭をプロデュースしたことですね。
当時の学園祭は、関わっている学生以外は旅行に行ったりしてしまうんですよね。
学園祭に来る人は他大学の学生だったりして。
それでは寂しいということで、クラブ対抗の歌合戦を企画したんですよ。
各クラブに伝わる春歌というエロい歌があって、それを披露してもらいました。
そうしたら、結構盛り上がって。
お客さんが湧いている雰囲気に体がしびれる感覚があって、人を楽しませる仕事って楽しいなと思いました。
バラエティ志望でテレビ局に入ったものの…
当時、アメリカ横断ウルトラクイズをやっていて、クイズ番組なんだけどドキュメンタリータッチなんですよ。
負けた人の帰国までを追ってみたりとか。
そういうダイナミックでドキュメントタッチなものがやりたいと思って、日本テレビに入社しました。
制作部希望でしたが、配属されたのは編成部でした。
制作部に行くために、毎週1本企画書を提出することを2年半続けました。100本ほど企画書を作った3年目にようやく制作に配属になりました。
そこで担当したのはワイドショーです。
梨元さんと一緒に、芸能ネタだけじゃなくロス疑惑や投資ジャーナル事件などを取材しました。
笑いの難しさを思い知らされた『元気が出るテレビ』
配属されて2年半後に、元気が出るテレビを担当しました。
総合演出はテリー伊藤さんで、人を笑わすことに貪欲な方でした。
人を笑わすって本当に難しいんですよ。
当時初めて作ったロケのVTRを流すと、スタジオで誰も笑ってくれなくて、ビートたけしさんに「これは放送ではなかったことになっていますから」と言われてしまう始末でした。
半年後に、初めて直しのない形でVTRを流してもらって、スタジオの200人が爆笑してくれて、本当に気持ち良かったですね。
お笑いのディレクターでやっていこうとこの時心に決めました。
テレビ局を辞めようと決意した34歳
元気が出るテレビの後は、そろそろ独り立ちをしなさいということで自分の企画をやることになりました。
「『風雲たけし城』みたいな番組を作れ」と言われて作った最初の番組は視聴率1.4%しかとれず、半年で終わりました。
その次に作ったダウンタウンの東京進出のきっかけとなった番組も2~3%しかとれず打ち切り。
その後作った『欽ちゃんの気楽にリン』は6回で打ち切られてしまいました。
その頃には、「自分には制作の才能がないんだな」と感じていました。
そして結局、編成部に戻ることになりました。
2年後、打ち切られた番組の後のつなぎ番組をやることになりました。
この時34歳で、これがダメだったら転職しようと考えていました。
クビになってもいいから、最後に爪痕を残してやろうという気持ちで始めたのが『電波少年』です。
中高生から得た熱狂的な支持
『電波少年』は、不思議と中高生から支持を受けていました。
アポなしで会いに行って門前払いだったり、相手に怒られたりと予定調和じゃない展開がウケたんです。
数ヶ月で打ち切りの予定でしたが、役員が息子さんに「今、日テレで一番面白い」と言われたことがきっかけで、もうちょっとやってみるかとなりました。
テレビカメラは色々なものを写すんです。
ためらいとか、誤魔化している顔とか。
最初は怒っていたのに、テレビだと分かって取り繕う顔とか。
そういうものをすべて写したことが新鮮だったんだと思います。
伝説の企画、猿岩石のヒッチハイクが生まれた理由
僕自身、海外の一人旅が好きで放浪していたんですよ。
一人旅をすると、騙されたり面白い人に会ったりするじゃないですか。
その当時の旅番組は、こんなすごい所があるとか、美味しいものがあるとか、所謂紹介番組だったんですよ。
これからは、団体旅行より個人旅行の方がメインになると思っていたので、個人旅行の面白さを伝えることをテレビでやりたいなと思ったのがきっかけで、ヒッチハイク企画を始めました。
猿岩石のヒッチハイクが流行って、その後ドロンズが南北アメリカ大陸横断をやったら、旅の番組だよねと言われるようになりました。
旅は風景が変わるから面白いんだと知ったかぶりをされて、風景が変わらない部屋で旅番組をやってやろう思いました。
でも、部屋の中で旅をするってなんだろうと考え始めて。
小さい頃、親父に届いたお中元ってワクワクしたよなと思い出しました。
何かが届くというワクワクは、何が起こるかわからない旅に似ていると思って、懸賞生活という企画を始めました。
その後も、売れない芸人がやるから面白いと言われて松本人志の企画をやったり、男しかいないと言われたから十五少女漂流記をやったり、常に誰もやっていないことを目指してきました。
期待を裏切って、期待を超えること
猿岩石がロンドンでゴールする時、日本中が感動モードになっているのを肌で感じていました。
だから逆に感動だけでは終わらせないぞという気持ちになってきて、南北アフリカ大陸横断をやれと猿岩石にいってみようと思ったんです。
スゴい数の抗議電話でした。
でも、ロンドンでゴールして感動で終わらせちゃったら、翌週誰も見てくれません。
そこで、見ている人の期待を裏切るから「こいつら何するか分からないから見ておかないと」となるんです。
実際、ロンドンでゴールした翌週から数字がさらに上がって行きました。
顧客満足度ってよく言いますけど、「客の声を聞け」じゃだめで、客の声のさらに上に行かないとだめだと思っています。
みんなが群がる方にはいかない
僕は新しいテクノロジーが大好きで、猿岩石のヒッチハイクもSONYのHi8という家庭用ビデオカメラが出たから成立した企画です。
猿岩石とディレクターの3人だったら、ヒッチハイクして車1台で回れますからね。
これからもテクノロジーの進化が新しいコンテンツを生むと思っています。
VRとかAIをばかばかしいことに使っていきたいと思っています。
何かを始めたいという人は、とにかくみんなが見る方をみないことだと思っています。
だって、みんなが見ているものから新たに面白いものなんて見えてこないでしょう。
みんなが見ていないものを見てください。
そして夢中になってください。
夢中になる人生が一番面白いですから。
僕もこの年で金髪にして、みんながやらないことを毎日考えています。
取材を終えて
土屋さんは、信念の人だった。
人と同じことはしないということを徹底してきたからこそ、時代を代表するテレビ番組が出来上がったのだろう。
あらゆるメディアプラットフォームが登場し、誰でもコンテンツが配信できる時代になった。
誰でもできるからこそ、その中で誰もやっていないことを考えるべきなのかもしれない。
でも私がそんなことを考えているうちに、土屋さんはそのずっと先を見据えている。
土屋さんが企む、次の一手から目を離してはならない。
プロフィール
土屋 敏男(つちや・としお)
日本テレビ 日テレラボ シニアクリエイター
1979年、日本テレビに入社。
ワイドショーの現場を経て、バラエティ番組制作に携わるようになったが、低視聴率が続き、編成に異動。
その後再び制作に戻って作った『電波少年シリーズ』が高視聴率となる。
編成部長(2001年7月 - 2003年7月)として行った各局の視聴率分析の結果、世代交代の必要性を感じテレビ番組制作から離れ、2003年6月コンテンツ事業局コンテンツ事業推進部長、2004年6月コンテンツ事業局次長兼コンテンツ事業推進部長兼PR局日テレイベント事務局長、2005年6月PR局次長、2005年9月第2日本テレビ事業本部VOD事業部長兼コンテンツ事業局次長兼PR局次長、2006年7月第2日本テレビ事業本部ED(エグゼクティブディレクター)、2008年6月編成局ED・P兼AXON出向、2012年6月編成局専門局長を経て、2015年5月付で編成局ゼネラルプロデューサー。2016年6月1日付で現職。
◆11月3日公開
土屋敏男初監督ドキュメンタリー映画「We Love Television?」
主演 萩本欽一
http://kinchan-movie.com/